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この記事の目次
帰蝶追放説
帰蝶の史料は極めてとぼしく、実証が難しいので詳しい事はなにも分かりません。通説では、信長との間に子供は出来なかったとされていますが、信長の子供、特に女児は生母不明が多く本当に子供がいないかすら定かではないのです。
また、子供が無かったから信長に離縁された。あるいは、道三が死んで信長と敵対する義龍が当主になったので政略結婚の意味がなくなり織田家を追放されたという説もありますが、道三には、婿である信長に美濃を譲るとした国譲状があり、それを受け取った信長としては、帰蝶との縁は切らない方が得策とも考えられます。
さらに、道三の側室の1人は信長の妹であり重縁になっている点や、美濃からの人質であるという性質を考えると、無意味に離縁して義龍に返す必然性もありません。
実際、織田家臣団には斎藤氏と織田氏の共通の親族と言える家臣団がいて、浪人だった明智光秀も帰蝶と従兄妹という関係から信長に用いられた可能性もあります。
もちろん、その場合、斎藤道三の娘である帰蝶が、織田家と斎藤家を結びつける核になりますから追い出すような選択は取らないでしょう。従って、離婚されて追放された説は信憑性が薄いと言えます。
帰蝶死亡説
帰蝶は14歳で信長に嫁いだものの、初期の側室、生駒氏が弘治3年(1557年)に信長の嫡男、織田信忠を産む以前に20歳前後で死んだという説があります。
この説は、正室の帰蝶が死んだので、信長が生駒氏を継室として信忠が生まれたという考えですが、実際には生駒氏が継室になった記録はなく、そもそも信忠の母は生駒氏だと決まったわけでもないのです。
生駒氏の記録のある武功夜話は、近年その資料としての精度に疑いが出てきており、帰蝶が早く死んだから生駒氏が側室になったとは断定できません。
本能寺討死説
帰蝶がその後も生き残り、織田信長と共に本能寺に宿泊中に明智光秀に襲撃され、薙刀を奮い奮戦するも討死したと言う説です。これは創作物における描写であり、武士の妻として夫の最期に殉じる貞女の鑑として生み出された伝説と考えられます。
民間伝承では、岐阜県岐阜市不動町に本能寺の変の際に信長の家臣の1人が帰蝶の遺髪を携えて、この地までたどりつき埋葬したという濃姫遺髪塚というものがあるようです。
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、帰蝶も光秀も信長も少年期からの関係なので、もしこの説が採用されたら3名にとっては地獄絵図ですね。
信長より長生き説
信長の次男の織田信雄が天正15年(1587年)頃の家族や家臣団の構成をまとめた織田信雄分限帳に出てくる安土殿が帰蝶であると考える説もあります。
記帳によると安土殿は、600貫の知行を受け、女性としては信雄の正室の御内様、信雄の実妹徳姫についで3番目に記載され、4番目の信長生母、土田御前や5番目の信長妹小林殿と比較してもかなり地位が高く、まだ安土殿という名前は信長の根拠地安土城を冠した名前で、信長の正室である帰蝶に相応しいと考えられています。
これが正しいなら帰蝶は本能寺でも死なず、少なくとも5年以上、信長より長生きした事になりますね。
戦国時代ライターkawausoの独り言
信長と婚姻後の帰蝶の消息は不明ですが、その後、斎藤道三の息子や明智光秀が織田家を頼って来た背景を考えると、存命の帰蝶の伝手を頼ったと考えた方が自然です。
そのため、帰蝶は離縁される事無く織田家で暮らしていたとkawausoは考えます。大河ドラマのように目立つ事はないものの、帰蝶を中心に織田と斎藤の家臣が一つに纏まり、天下統一に邁進して行ったのだとしたら面白いですね。
参考:Wikipedia
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