足利幕府の将軍と言うと徳川将軍に比較しても影が薄いですが、それでも初代の足利尊氏と応仁の乱時の足利義政、それに剣豪将軍の足利義輝と最後の将軍、足利義昭は知られている方でしょう。
ですが、足利義輝と足利義昭の間に在位した14代将軍、足利義栄は御存じでしょうか?
今回は、在位1年に満たず病死した影薄い14代将軍、足利義栄について解説します。
永禄の政変後の将軍候補
足利義栄は、天文7年(1538年)足利義冬の長男として阿波国那賀郡平島の平島館に誕生します。
義栄の父の足利義冬は、元の名前を足利義維と言い、三好元長・細川晴元と共に、兄で12代将軍の足利義晴を擁する細川高国を打ち破り堺に幕府を開いて堺公方になりますが、天文元年(1532年)に後見人の三好元長が、裏切って足利義晴についた細川晴元により殺害され、力を失い阿波国に戻りここで義栄が生まれています。
そんなわけで、兄義晴の息子で将軍の足利義輝とは仲が悪く、それは息子の義栄にも受け継がれていました。ただ、義維は、周防に移動して阿波に戻った永禄6年(1563年)頃に中風になり身体が不自由になったので、義栄の後ろ盾としては頼りない存在でした。
しかし、永禄8年(1565年)5月19日、三好三人衆等と不仲になった将軍足利義輝が京都二条御所を襲撃されて殺害されます。永禄の政変です。義輝を殺害した三好三人衆、三好義継、松永久通は当初、足利義冬を担ごうとしていましたが中風で将軍の任に堪えられないだろうと判断され足利義栄が将軍候補として擁立されました。義栄27歳の時です。
三好三人衆に担がれ畿内に入る
永禄8年11月、三好三人衆と松永久秀が権力抗争を開始すると義栄は久秀討伐令を出します。翌永禄9年6月には、三好三人衆方の篠原長房や三好康長に擁立されて淡路国へ渡海し、9月23日には摂津国越水城へ、さらに冬の12月5日には、摂津国富田総持寺に、12月7日には普門寺城に入りました。
しかし、同じ頃には殺害された足利義輝の弟の覚慶が、義輝側近の一色藤長、和田惟政、三淵藤英、細川藤孝等に救助され、近江国の野洲郡矢島に御所を置いて、足利義秋と改名し、上洛の為に各地の大名に手紙を出しています。こうして父の代でも起きた、誰が正統将軍になるかのデッドヒートが繰り返される事になりました。
さて、将軍になるには前段階として従五位下左馬頭に就任する必要がありましたが、永禄9年4月21日にはライバルの足利義秋が先に任官。義栄は、それより半年遅れて永禄9年12月24日に任官許可が出され、永禄10年1月5日に正式に叙任されます。
面白いのは、この段階で義秋は近江、義栄は摂津とどちらも京都には入っていないという事でした。この頃の京都は騒乱の只中にあったのです。
ライバル義昭を出し抜き将軍宣下を受ける
永禄10年11月、義栄サイドは朝廷に対し将軍宣下を申請しますが、朝廷の要求する献金に応じられず当初は拒絶されます。しかし、その後、交渉は進展し永禄11年2月8日に朝廷から将軍宣下がなされ、ライバルの義秋に先んじて14代将軍に就任しました。
同じ頃、ライバルの義秋は「上洛だ!上洛しないで将軍宣下なんて意味ない!」と、ムキになって武田、上杉、織田、斎藤、朝倉のような大名に上洛を要請しては、色よい返事を受けられないという足踏み状態でした。
その為、ライバルの義栄が摂津国に在国のまま将軍になったのは相当な衝撃だったらしく「俺の運が悪いのは名前が良くないせいだ!」として義秋の「秋」の字を季節の秋から、昭和の昭の字の「昭」に改めています。
しかし、征夷大将軍になった足利義栄は、三好三人衆と松永久秀が抗争を繰り返す京都に入れず、心労で背中に悪性の腫物が出来てしまいました。
志半ばで31歳で病死
永禄11年(1568年)9月、足利義昭を奉じて織田信長が上洛の動きを見せます。三人衆は畿内で信長と戦いますが、敗れて畿内の勢力を失い阿波に逃れます。もちろん、三人衆を後ろ盾にしている義栄も力を失い阿波に逃れていきますが、撤退のストレスで腫物が悪化し31歳で病死しました。
足利義栄の将軍在位期間は10カ月に満たず、歴代足利将軍でも最短です。死んだ月も、9月13日から10月22日まで幅があり、死去した場所も、摂津、阿波、淡路と諸説あります。足利義栄が死んだ事で将軍職は空位となり、そこに足利義昭が滑り込んで15代将軍に就任しました。
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