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足利義栄の業績
10カ月に満たない将軍在位期間と病弱で三好三人衆の庇護の中にあった事で、従来、義栄の評価は完全な傀儡将軍というものでした。
しかし、三人衆と松永久秀の対立後は、石清水八幡宮の人事に介入して朝廷と対立したり、永禄10年の5月に起きた京都住民と大徳寺の対立でも義栄が派遣した幕府奉行人、松田藤弘が朝廷から派遣された勧修寺晴右とともに仲裁にあたるなど、三人衆と松永久秀の対立で相対的に義栄の発言力が強まっていました。
もちろん、それでも義栄は足利義輝の奉公衆、特に訴訟を担当する事務スタッフをほとんど味方につけられずに義昭に奪われ、自前のスタッフがとても少なかった点や、当人の病弱、将軍在位期間の短さで、主体性を発揮する余地がほとんどなかったのも事実です。
それでも、義栄は幸運にも父・義冬の時と異なり、現職の将軍が暗殺により空位であり対抗者である義昭がほぼ無力で立場が弱かった事が将軍宣下を先に受ける事に優位に働きました。
将軍就任後の義栄の境遇は、長命だった義昭とは比較にならない程に悲惨ですが、少なくとも将軍就任レースでは見事に義昭に勝ち、父、義冬の無念を晴らしたとは言えるでしょう。
戦国時代ライターkawausoの独り言
病弱かつ、三人衆の傀儡で、良い所がないように見える足利義栄ですが、それでも多すぎる制約の中で、なんとか将軍として主体的に振る舞おうと努力していた事が分かります。しかし、その努力も運命共同体の三人衆の敗北で水の泡と消えたのです。
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