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足利義栄とはどんな人?影が薄い室町幕府最短在位将軍


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足利義栄とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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足利義栄の業績

内容に納得がいかないkawauso様

 

10カ月に満たない将軍在位期間と病弱で三好三人衆の庇護の中にあった事で、従来、義栄の評価は完全な傀儡将軍(かいらいしょうぐん)というものでした。

 

しかし、三人衆と松永久秀の対立後は、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の人事に介入して朝廷と対立したり、永禄10年の5月に起きた京都住民と大徳寺の対立でも義栄が派遣した幕府奉行人、松田藤弘(まつだふじひろ)が朝廷から派遣された勧修寺晴右(かじゅうじはれみぎ)とともに仲裁にあたるなど、三人衆と松永久秀の対立で相対的に義栄の発言力が強まっていました。

 

もちろん、それでも義栄は足利義輝の奉公衆、特に訴訟を担当する事務スタッフをほとんど味方につけられずに義昭に奪われ、自前のスタッフがとても少なかった点や、当人の病弱、将軍在位期間の短さで、主体性を発揮する余地がほとんどなかったのも事実です。

くじ引きで将軍となった足利義教

 

それでも、義栄は幸運にも父・義冬の時と異なり、現職の将軍が暗殺により空位であり対抗者である義昭がほぼ無力で立場が弱かった事が将軍宣下を先に受ける事に優位に働きました。

 

将軍就任後の義栄の境遇は、長命だった義昭とは比較にならない程に悲惨ですが、少なくとも将軍就任レースでは見事に義昭に勝ち、父、義冬の無念を晴らしたとは言えるでしょう。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

病弱かつ、三人衆の傀儡で、良い所がないように見える足利義栄ですが、それでも多すぎる制約の中で、なんとか将軍として主体的に振る舞おうと努力していた事が分かります。しかし、その努力も運命共同体の三人衆の敗北で水の泡と消えたのです。

 

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はじめての戦国時代

 

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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