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時々、太田牛一の好き嫌いが出る
客観的な太田牛一ですが、戦国のボンバーマン松永久秀はキライだったようで、永禄10年10月10日に東大寺大仏殿を焼いたとされる松永久秀が、焼いたのと同月同日の天正5年の10月10日に、信長に叛いて居城の信貴山城を織田信忠を総大将とする織田軍に攻められて城が焼け落ちた時には、天罰はあるものだ因果は巡ると書いています。
かと思えば、同じく信長に叛いた荒木村重には、身の程知らずと切り捨てつつも文章では同情的であり、荒木村重と妻の、だしの間の夫婦を思いやる和歌を何首も掲載しています。
同じく信長に謀反した2名への態度がこうも違うと、牛一は久秀に何か恨みでもあったのかと考えてしまいます。でなければ、荒木村重夫妻と交流があったのか・・
日本史ライターkawausoの独り言
太田牛一は、誰かに頼まれて信長公記を書いたわけではありませんが、当人が歴史を記しているという自負があったのか、中国の公式文書のように編年体を取り、他人が読む事をかなり意識したつくりです。
かなり長いですし、軍記物と違い過エンタメ要素もないので、退屈な部分もありますが、織田信長に興味があるなら是非読んでおきたい一冊です。
参考文献:現代語訳 信長公記 新人物文庫
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