八甲田雪中行軍遭難事件とは?ミスが積み重なった悲劇の山岳事故

2020年8月25日


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八甲田雪中行軍遭難事件とは?(1P目)

 

初日から暴風雪に襲われる

祁山、街亭

 

神成大尉が率いる210名の雪中行軍部隊は、1月23日午前6時55分に青森連隊駐屯地を出発します。しかし、田茂木野(たもぎの)において地元民が早くも天候不順による行軍の中止を進言しました。

 

そして、どうしても行くというのであれば、案内役を申し出ますが、雪中行軍隊はこれを断り地図と方位磁針のみで厳寒期の八甲田山脈の踏破を目指します。

 

それでも、前回予行演習を行った小峠までは障害なく進軍できましたが、食料と燃料を積んでいるソリ隊が遅れ始めたので大休止として昼食を摂ります。

 

しかし、大休止の途中に天候が急変し、暴風雪の兆しが出現し、永井軍医の進言により将校の間で進退についての協議が行われます。将校は装備の乏しさと天候悪化を懸念し、駐屯地に戻る事を検討しましたが、田茂野木では案内人を断っており、ガイドもありません。

朝まで三国志201 観客2 モブでブーイング

 

また、見習士官や伍長のような下士官を中心とする兵士の反発もあり、行軍を続行する事に決定します。

 

田代温泉まで残り1.5㎞で暴風雪と日没で露営

 

隊は悪天候と積雪などの苦難を押しのけ、大峠から6㎞の馬立野(うまたての)まで進みますが、ここから鳴沢(なるさわ)にかけては積雪量が格段に増加。行軍速度が大幅に低下し、食料と燃料を積んだソリ隊は、本隊より2時間以上遅れます。

 

午後5時頃、馬立野から鳴沢へ向かう途中で、ソリによる運搬を断念、積荷は各輸送隊員が分担して運ぶ事になりました。これにより、行軍はさらに遅れる事になり、日没と猛吹雪で田代方面への進路も発見できなくなり、隊はやむなく露営設備を持たないままキャンプを張る事になりました。

 

午後8時15分、田代まであと1.5㎞の平沢の森を隊は最初のキャンプ地と定めます。ここで隊は、幅2m、長さ5m、深さ2.5m、都合6畳ほどの雪豪を小隊ごとに5つ掘り、1壕あたり40名が入りましたが、覆いや敷き藁もなく座る事さえ出来ませんでした。

 

午後9時頃までには、行李隊も全てキャンプに到着し、各壕に餅と缶詰、および木炭22.5㎏ずつが分配されます。

 

しかし、40人分を賄うには乏しい量であり、炉火も各壕で1つずつしか起せないので交代で暖を取りました。おまけに着火に1時間を要した上に、雪が積もりすぎて炊事用の壕を掘ろうにも、2.4m掘っても地面に届かず、やむなく雪の上に竈と釜を据えて炊事作業を開始しますが、火がつくと床の雪が解けて釜が傾くなど炊事作業は困難を極めました。

 

午前1時にようやく出来た飯は生煮えであり、その残りのお湯で煮た清酒も異臭がして飲めたものではなく、なにより、零下20度という寒さの為に眠ると凍傷になるとして睡眠が許されず、全く横になれない事で兵士の間では疲労が極限に達していました。

 

痛恨の深夜出発、そして完全遭難

 

雪中行軍隊は、午前5時に出発する予定でしたが、多くの将兵が寒気を訴え、凍傷になる恐れが出てきました。そこで山口少佐等部隊の将校は協議した結果、行軍の目的は達成されたとして帰還を決定し、午前2時半にキャンプを出発します。こうして隊は馬立場を目指しますが、夜の行軍の為に鳴沢付近で峡谷(きょうこく)に迷い込んでしまいました。

 

やむなく、隊はキャンプに引き返す事にしますが、ここで佐藤特務曹長(さとうとくむそうちょう)が田代への道を知っていると進言。山口少佐は独断で案内を命じます。しかし、佐藤特務曹長は道を誤り、沢への道を下って駒込川(こまごめがわ)の本流に出てしまいました。

 

この頃には、隊全員が疲労困憊しており、元来た道も吹雪で消されており、キャンプには戻れない状態になります。つまり、雪中行軍隊はここで完全に遭難(そうなん)したのです。

 

ここから、疲労困憊した隊員に凍死が相次ぎます。崖をよじ登ろうにも、登れずに落後する兵士が続出、崖をよじ上って高地に出た隊も猛烈な暴風雪にさらされ、ここで隊員の1/4が凍死、落伍しました。

 

その後、鳴沢付近の窪地にキャンプしますが、キャンプ設営の器具を持つ兵士は全員落伍していたので、ただ吹雪の中で全員が固まって寒さに震える事になります。食糧は、各自が携帯していた餅の残りや缶詰がありましたが、凍結していて食べる事が不可能でした。

 

猛吹雪と気温の低下で体感温度は零下50度近くまで下がり、兵員は前日からの不眠不休で絶食状態でもあり、多数の兵士がここで凍死します。

 

雪中行軍の4日目からは、遭難を確信した青森連隊から60名の救助隊が出発しますが、途中で悪天候に阻まれるなどして捜索は難航し、結局全ての雪中行軍隊を収容できるのは、2月2日まで、11日間も掛かったのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

今回は八甲田山雪中行軍遭難事件という重い事件を解説しました。詳細に語れば、より生々しい遭難の悲惨な記述が出てくる話ですが、今回は雪中行軍の失敗について焦点を当てるべく、細かい部分には立ち入りません。

 

ですが、これを雪中行軍の指揮官である神成大尉や山口少佐の責任に矮小化する事は出来ません。個人の決断や経験以前に、ここには計画段階からの杜撰な人事や、引き継ぎの甘さ、冬山についての経験不足、部隊のプライドなど、多くの要因が絡み合い、そのベクトルが遭難死という一点に向かい直進した複雑な事件だったのです。

 

参考:Wikipedia等

 

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西郷どん

 

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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