最近は司馬史観による英雄扱いも色褪せ、下手をするとテロリスト扱いを受ける気の毒な幕末の偉人、坂本龍馬。しかしkawausoは坂本さんが好きでありんす。
特に、司馬史観から解放され、聖人君子ではない生臭い部分が強調されるようになってから増々好きになりました。なーんて!免罪符を切った上で、今回は、海援隊は日本最初の株式会社ではなかったという話をやります。
この記事の目次
日本最初の株式会社は小栗忠順発案の兵庫商社
海援隊が、日本最初の株式会社でないとすると、最初の株式会社はどこなのか?
それは、幕府勘定奉行小栗忠順により、慶応3年(1867年)6月5日、大坂の富商20名を京都に招集し彼らを役員として設立された「兵庫商社」です。
兵庫商社は、頭取に鴻池屋山中善右衛門、加島屋、広岡久右衛門、同、長田作兵衛の3名を選び、米屋、辰巳屋、平野屋、炭屋などの豪商11名が世話役、その他の出資者は「社中」として構成され、100万両という巨額の設立資金が出資されて設立されました。
この兵庫商社は役員、定款を備えた会社として幕府の承認を受け、半年余り活動しましたが、鳥羽伏見の戦いを受けて活動を停止、以後、二度と活動を再開しませんでした。
海援隊は自称株式会社だった?
しかし、慶応3年6月というのは、幕府が消滅する僅か4カ月前です。その頃までには、坂本龍馬は亀山社中、そして、それを発展させた海援隊を組織し株式会社を運営していたのではないか?そんな疑問も湧いてきますよね?
でも、そもそも商社とは何を意味するのでしょうか?
Wikipediaには、商社とは、輸出入貿易ならびに国内における物資の販売を業務の中心にした商業を営む業態の会社である。と書いてあります。
そして、株式会社は会社の運営資金を広く出資者から募り、これを元手に商売して利益を出し一部を出資者に配当する形態を取っているのですが、実は亀山社中も海援隊も一度として商売で利益を上げた事がないのです。
亀山社中は薩摩藩の出資、海援隊は土佐藩の出資ですが、海援隊は一度も配当を出せた事がなく、海援隊時代に至っては活動経費と給料と別になっていて土佐藩のお金で度々、丸山遊郭でどんちゃん騒ぎでした。
それでも土佐藩がまるで利益を出さない海援隊を放り出さなかったのは、結局、土佐藩を「海」から「援」護する軍「隊」の海軍としての部分を買ったからで、海援隊が儲けてくれるなんて余り期待していませんでした。
もちろん、根は商人である坂本龍馬は、「いつまでも土佐藩のヒモではいかんちゃ」と独立採算を考えていて、それは次の項で解説しますが、結果的に海援隊は自称「株式会社」、あるいは活動資金を援助に頼るNPOという位置づけに留まるのです。
激動の幕末維新を分かりやすく解説「はじめての幕末」
坂本龍馬の海援隊商社化計画
第二次長州征伐では長州藩に薩摩藩が購入した武器を輸送した亀山社中ですが、皮肉にも幕府が敗北した事で事実上お払い箱になりました。もはや、長州は幕府の制止を受けず、外国から堂々と武器を仕入れられるようになり、薩摩を仲介して武器を買わなくてもよくなったからです。
おまけに亀山社中は、社中の為に購入した船の代金払いを薩摩に付け替えたので、パトロンの薩摩藩とも関係が冷え込んでしまい(当たり前・・)亀山社中は解散の瀬戸際に立たされ、龍馬は事態の打開を模索するようになります。
そんな中で坂本龍馬は「これからは蝦夷フロンティアじゃ」と蝦夷地開拓に夢を託すようになりますが、その途上で五代才助(友厚)と交流を深めるようになります。
五代友厚と言えば、東の渋沢栄一、西の五代友厚と称される経済人で、維新後には大阪造幣局の設置進言や、金銀分析所の設立、大蔵省造幣局の設立や、堂島米会所の設立、大坂証券取引所など、近代大坂の経済発展に寄与した人物でした。
もちろん、五代は小栗忠順が進めている兵庫商社の設立を知っていて、龍馬に幕府の狙いまで喋っていたのです。
「そらぁいかん、こんなものを幕府に造られては、日本の経済は幕府に握られ倒幕は出来んようになるぜよ」
危機意識をもった龍馬は、五代と共に薩長に協力させ下関に新たな商社を設立する事を構想します。場合によっては亀山社中を亀山商社として改組し、本拠地を長崎から下関に移してもいいと考えてさえいました。
こうして、慶応2年11月下旬、龍馬は、長州の広沢真臣との間に6カ条からなる商社示談箇条書をまとめたのです。
龍馬のこの構想が実現していれば、慶応3年6月の兵庫商社の設立に先んじて、日本最初の株式会社の発起人になったかもですが、、余りにも多忙な龍馬は、薩長合弁商社に深くかかわる時間がなく、今度は土佐藩の海軍組織として亀山社中を海援隊と改称します。
そして、商業より政治的な奔走をする事が多くなり、慶応3年11月15日に京都近江屋で何者かに襲撃され死去するのでした。
小栗忠順や坂本龍馬の商社にはどんな意味があった?
さて、私達は歴史の教科書で幕末に商社、カンパニーの事について学ぶのですが、坂本龍馬や五代友厚や小栗忠順が構想した商社には、一体どんな意味があったのでしょう?
幕末の頃、日本の主要な輸出品は生糸でした。日本の生糸は、品質が良く人件費も安いので安価であり、本来なら海外で沢山売れて、日本に富をもたらす筈でしたが、実際にはそうはなりませんでした。
それというのも、当時の日本の商人は海外に販売ルートを持っておらず、輸出は全て外国商人に頼っていたからです。外国商人は、日本商人の弱みに付け込んで、持ってきた生糸を海外販売価格の1/3、1/2で安く買いたたき、都合の悪い売買契約を反故にし、また生糸検査料として金を取るなどして搾取しました。
さらに、外国人商人は、日本の商人の資本が乏しいのに目をつけ、運転資金を高利で貸し付けて借金漬けにし、自分達の言いなりになるように操ったのです。外国商人の不当な搾取に憤り、何とかしようと考えて小栗忠順が設立したのが、最初に紹介した兵庫商社でした。
小栗は、日本の国内業者が日本の産品を海外に輸出する時には、この兵庫商社に一旦は全て買い取らせる事を義務付けようとしました。
つまり外国人を通さずに全て日本人の手で商品の輸出を行う事で外国商人の買い叩きを防止し、同時に海外貿易を幕府が一手に握る事で傾いていた幕府財政を立て直そうとしたのが兵庫商社だったのです。
意地悪な事を言えば、外国商人の代わりに幕府が買い取り価格を操り、大儲けしようという事なので坂本龍馬がこれに対抗して薩長合弁会社を設立しようとした危機意識も分かりますね。
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