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この記事の目次
信長包囲網に参加するも返り咲く
近衛前久は、都から丹波国の赤井直正を頼り落ち延びて、黒井城の下館に仮住まいし、さらに本願寺顕如を頼って摂津国の石山本願寺へ入ります。しかし、抜け目ない前久は、この時、顕如の長男の教如を猶子(名目上の子供)としていました。何かの時に、自分が窮地に陥ったら石山本願寺を頼ろうという考えでしょうね。
さて、前久を追放した足利義昭ですが、すぐに織田信長との関係が上手くいかなくなり、信長包囲網を作って信長を排除しようとします。
この時に、足利義昭は三好三人衆を仲間に引き入れていたので、三好三人衆を通じ、前久もこれに参加、三好義継の若江城に入り本願寺顕如にも参加を促しました。
歴史的には、このせいもあり、織田家と本願寺は10年に及ぶ石山合戦になるのですが、前久は信長に恨みはなく、信長を追放後に、三好三人衆が京都を制圧したら、足利義昭と二条晴良を排除するつもりで参加していたようです。
そのため、天正元年(1573年)義昭が信長に京を追放され、義昭のマブダチの二条晴良も信長から疎んじられると、前久は再び、赤井直正のもとに移り、信長包囲網から離脱しました。
さらに、時を待つ事2年、あっちゃこっちゃにコネを持つスパイダー前久は、織田信長の上奏で京都に返り咲きます。逆に二条晴良は信長の信任を失い、天正6年(1578年)関白を辞職し翌年には死去しています。54歳でした。
近衛前久のマブダチ!織田信長
近衛前久は、信長との親交を深めていきます。
特に、信長と前久は鷹狩り仲間であったので、しばしば鷹狩りを繰り返しては互いの成果を自慢したそうです。近衛前久は信長の依頼を受けて、その蜘蛛のような人脈を駆使し、毛利輝元包囲網構築のため、九州に下向し大友、伊東、相良、島津の和議を図っています。
さらに天正8年(1580年)には、信長と本願寺の調停に乗り出し本願寺顕如は大坂の石山本願寺を退去させる事に成功しました。織田信長を10年苦しめた本願寺との和睦に信長は喜び、天下平定の暁には近衛家に一国を献上すると前久に約束したそうです。
天正10年2月に、前久は、太政大臣に昇叙しますが、5月には辞任しています。この理由は、前久が信長に太政大臣を譲るつもりだったとも言われています。同年の3月の武田征伐には織田信長に従い出陣し揖斐川に到達しました。
近衛前久 本能寺の変で全てが水の泡
しかし、天正10年6月2日の本能寺の変で、近衛前久の快進撃も終了します。織田信長に対しては、本当に好意を持っていたのか前久は失意のうちに落飾して龍山と号し出家しました。
ところが、本能寺の変の時、明智光秀の軍勢が前久邸から本能寺を銃撃したという讒言に遭い、織田信孝や羽柴秀吉から詰問されます。こうして、信長の後継者からの信任を失った前久は、ならば徳川家康を頼ろうと遠江国浜松に落ちていきました。
ちなみに家康との交友は、家康が三河守を名乗りたいので私の先祖で三河守だった人を、古い文献から探して欲しいと依頼され探し当てた時から交流です。さすが、戦国のスパイダーマン、あちこちに知人がいますね。
1年後、家康の斡旋で、秀吉の誤解が解け前久は京都に戻りますが、天正12年には小牧・長久手の戦いで両者が激突し、どちらからも疎まれる立場になった前久は奈良に逃げ、両者の間に和議が結ばれてから京都に帰還しています。
それからは、歴史の表舞台に出る事も少なく、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として隠棲。慶長17年(1612年)5月8日、徳川の天下を見届けて77歳で死去し、京都東福寺に葬られました。
近衛前久が明智光秀の黒幕?
近衛前久が本能寺の変の黒幕であるという説もあり、その証拠として、近衛前久邸から明智光秀軍が本能寺に銃撃した事が挙げられます。しかし、それは讒言であり、そもそも、近衛前久は明智光秀とあまり接点がありません。
そもそも近衛前久が信長を討ってもデメリットこそあれ、メリットはゼロです。実際、信長が死ぬと出家していますし、羽柴秀吉や織田信孝に光秀に関係しているだろと疑われていますし、これまでのスパイダーな世渡りを見れば疑われても仕方ないのですが、かなり踏んだり蹴ったりです。
さらに前久は慶長13年(1608年)に信長の追悼句会まで開いています。もう信長と友達アピールをする必要もないのに、こんな事をしているのは本当に信長とは友情があったんでしょう。だから前久が本能寺の黒幕とは考えにくいですね。
島津義弘から猫をもらってメロメロ
慶長年間ですから、島津義弘が朝鮮の役から帰った後かも知れません。当時、島津軍は朝鮮半島に猫を連れて行き、モフモフ&猫の瞳で時刻を見ていました。それをどこで聴きつけたのか、近衛前久に義弘が猫を贈った事があります。すると前久は令状を送って来たのですが、
「いつ贈られるかと待っていましたが、思った通りの美猫でとても満足しています。
しかし、此度の猫は、妻に取られてしまい、私の手元にはいません。
そういうわけで、もう一匹贈ってもらうわけにはいかないだろうか?
いやいや!他人に譲ろうというのでは決してない。
娘も猫を欲しがっているが、それは構わなくていいので、まず、私に一匹頂きたい」
このように猫にメロメロな様子が窺えます。島津家と近衛家は鎌倉時代以来の付き合いなので、猫を通じて交際を親密にする狙いもあったとは思いますが、スパイダー前久も純真無垢な猫には、真っ黒な心を癒してもらえたのかも知れませんね。
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