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この記事の目次
近衛前久年表
・天文5年(1536年)近衛植家の長男として京都に誕生
・天文22年(1553年)藤氏長者となり藤原氏の頂点に立つ
・永禄2年(1559年)長尾景虎上洛時に意気投合し、足利義輝と3名で幕府再興を誓う
・永禄4年(1561年)現役関白のまま、古河城に入り関東の情報収集などして謙信に送る
・永禄5年(1562年)上杉謙信を見限り帰京
・永禄8年(1565年)三好三人衆の要求を受け入れ、足利義栄を14代将軍に任命
・永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛、前久失脚。
・天正元年(1573年)足利義昭京都を追放
・天正5年(1577年)京都に戻り、翌年には准三宮の待遇を受ける
・天正8年(1580年)本願寺と織田家の和睦を仲介し、本願寺顕如を大坂から退去させる
・天正10年(1582年)2月、太政大臣になるが5月には辞任。
・天正10年本能寺の変勃発、信長の死を聞き、出家落飾
・天正15年(1587年)京都慈照寺東求堂を別荘に隠棲
・慶長17年(1612年)5月8日死去、享年77歳
麒麟がくるライターkawausoの独り言
近衛前久は、公家らしく和歌に巧みで有職故実にも詳しいばかりでなく、若い頃から上杉謙信と付き合えるほどなので、鷹狩り、乗馬と武士の教養も積んでいました。
織田信長との意気投合も鷹狩りについてであり、前久は鷹狩りについての専門書を書いて、秀吉と家康にプレゼントした程でした。全てにオールマイティーな人だからこそ、あちらこちらに多くの知人が出来て、不安定な戦国時代を蜘蛛が糸を張るようにして、渡りきれたんでしょうね。
参考:Wikipedia
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