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【麒麟がくる】近衛前久はどんな人?戦国のスパイダーマン乱世に暗躍す

2020年8月29日


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近衛前久はどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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近衛前久年表

貴族趣味な今川氏真(和歌)

 

・天文5年(1536年)近衛植家の長男として京都に誕生

・天文22年(1553年)藤氏長者となり藤原氏の頂点に立つ

・永禄2年(1559年)長尾景虎上洛時に意気投合し、足利義輝と3名で幕府再興を誓う

・永禄4年(1561年)現役関白のまま、古河城に入り関東の情報収集などして謙信に送る

・永禄5年(1562年)上杉謙信を見限り帰京

・永禄8年(1565年)三好三人衆の要求を受け入れ、足利義栄を14代将軍に任命

・永禄11年(1568年)織田信長が足利義昭を奉じて上洛、前久失脚。

・天正元年(1573年)足利義昭京都を追放

・天正5年(1577年)京都に戻り、翌年には准三宮の待遇を受ける

・天正8年(1580年)本願寺と織田家の和睦を仲介し、本願寺顕如を大坂から退去させる

・天正10年(1582年)2月、太政大臣になるが5月には辞任。

・天正10年本能寺の変勃発、信長の死を聞き、出家落飾

・天正15年(1587年)京都慈照寺東求堂を別荘に隠棲

・慶長17年(1612年)5月8日死去、享年77歳

 

麒麟がくるライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

近衛前久は、公家らしく和歌に巧みで有職故実(ゆうそくこじつ)にも詳しいばかりでなく、若い頃から上杉謙信と付き合えるほどなので、鷹狩り、乗馬と武士の教養も積んでいました。

 

織田信長との意気投合も鷹狩りについてであり、前久は鷹狩りについての専門書を書いて、秀吉と家康にプレゼントした程でした。全てにオールマイティーな人だからこそ、あちらこちらに多くの知人が出来て、不安定な戦国時代を蜘蛛が糸を張るようにして、渡りきれたんでしょうね。

 

参考:Wikipedia

 

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麒麟がくる

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-戦国時代 (日本)