NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が2020年8月30日から放送再開します。それに合わせて新しい登場人物も発表、榎木孝明さん扮する山崎吉家も登場する事になりました。
これまで、あまり知名度が無かった山崎吉家ですが、実は名将朝倉宗滴没後の朝倉家の重臣なのです。今回は、最後まで朝倉家に忠誠を尽くした山崎吉家について解説します。
この記事の目次
山崎長吉の子として誕生
山崎吉家は、越前朝倉家に仕えた武将、山崎長吉の子として誕生しましたが生年は不明です。
記録に出てくるのは、享禄4年(1531年)8月の享禄の錯乱に伴う朝倉軍の加賀国出兵の際に朝倉宗滴に従い今湊に着陣した山崎新左衛門尉が初見とされます。
その後は弘治元年(1555年)加賀一向一揆攻めで大将である宗滴が病没すると、代わりに大将に指名された朝倉景隆と共に出陣しています。
もし、享禄の錯乱が初陣なら15歳位としても1516年生まれ、加賀一向一揆攻めでは40歳くらいで安定感のある年齢ですね。
朝倉宗滴亡き後の外交役として活躍
山崎吉家は、朝倉宗滴没後の越後上杉氏との交渉を受け継ぎました。その後、朝倉義景が織田信長と事を構えると美濃国安養寺や遠藤氏を通じて武田信玄とも交渉し朝倉氏の外交分野で活躍しています。
永禄10年(1567年)朝倉家の武将、堀江景忠謀反の時には、魚住景固と討伐軍大将として派遣されますが、すでに一向一揆の加勢が入り館を攻め落とすのが困難であり、結局、堀江景忠を一揆勢に亡命させる事で事態を治めています。
年寄衆だった山崎吉家
永禄11年(1568年)5月の足利義昭の朝倉館訪問時には、吉家は年寄衆として挨拶しています。
朝倉家は一族を同名衆といい、家臣の中の重臣を年寄衆や評定衆と言い、この両者が協力して政治を運営していました。
朝倉義景時代の年寄衆は、前波、魚住、桜井、青木、栂野、詫美、山崎の7名で、ちゃんと山崎吉家がカウントされています。
折角、一度は庇護した足利義昭でしたが、朝倉義景は上洛には消極的であり、いくら義昭が、なだめてもすかしても腰を上げませんでした。すっかり義景に愛想を尽かした義昭は
「やっぱり、わしノブリンに頼むわ、、今まで世話になったの、、シーユー!」と一乗谷を出て美濃に行ってしまいます。
織田信長の動きは早く、義昭を庇護して3カ月では万難を排して上洛、三好三人衆を追い払い、義昭を将軍職に就けました。
かくして織田信長は足利義昭の権威を借り、朝倉義景に
「おい!公方様に挨拶にこんか!このバカ殿ちょんまげ」と高圧的に命令(一部嘘)。
プライドが高い義景はこれを拒否し、織田信長と交戦状態に入りました。
坂本の戦いで猛将森可成を討つ手柄を挙げる
元亀元年(1570年)4月の金ヶ崎の戦いでは、吉家は朝倉義景本隊の第一陣として一乗谷を出発。織田軍が浅井長政の裏切りで退却した後、総大将朝倉景鏡の下で近江国へ出陣し美濃国境まで進出。赤坂、垂井などを放火し姉川の戦いの直前に帰陣します。
その後、織田信長が阿波から再上陸した三好三人衆を野田・福島城に攻撃すると、9月、近江に進出してきた朝倉軍本隊と合流。
朝倉景健と先陣を勤め、浅井軍及び比叡山、本願寺一揆勢と共に西近江を南下、宇佐山城から出て来た織田家の猛将、森可成、織田信治、青地茂綱を討ち取る功績を挙げます。
そのまま宇佐山城を抜き、朝倉・浅井連合軍が京に入れば、信長は根拠地を失い南北から挟まれ滅亡のピンチでした。
ところが、背後の宇佐山城は、森可成の決死の奮戦に奮い立ち2000人の守備兵で、朝倉・浅井連合3万の攻撃を跳ね返しました。
あわあわと手こずる間に、窮地に気づいた織田軍本隊が、三好三人衆と和睦して坂本に迫り、朝倉勢は宇佐山城攻略を断念して、比叡山に立て籠もり、小競り合いを繰り返して、織田の包囲に抵抗します。
しかし、豪雪地帯の越前では、冬になると撤退が困難である為に11月には和睦して両軍とも引き上げました。山崎吉家は織田家を滅ぼす絶好のチャンスを逃しました。
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