魏の近衛軍に売官が横行!その犯人は?


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曹操と虎豹騎

 

組織は人間が造るものなので、やはり人間と同様に()れ合いが生じると腐敗します。これは古今東西、どこでも同じであるようで、こともあろうに曹魏の皇帝を守る近衛兵、護軍でも売官が横行していたというのです。

 

一体、いつから護軍で売官が横行していたのかを調べてみると面白い事が分かりました。


硬骨漢蔣済でさえ撲滅できない護軍の売官

野心がありすぎる夏侯玄

 

護軍において売官が横行しているというのは、正史三国志の夏侯玄伝を補う魏略に出てきます。それによると、、

 

夏侯玄が転任した後、司馬師が代わって護軍になった。護軍とは諸将を統括し任務は主に武官の選挙で、それまでこの官にあったものは賄賂を禁止できなかった。

 

その為、蔣済(しょうさい)が護軍だった時に(ちまた)()れ歌が流行し「牙門(がもん)を求めるなら絹千匹、百人督(ひゃくにんとく)なら五百匹」と庶民は揶揄(やゆ)した。司馬懿は、蔣済と親しく閑な折に蔣済に「それは本当か?」と問うと蔣済は弁解できなかった。

 

そこで司馬懿は戯れに「市で買うのに一銭足りなくてもダメか」かくして相対して歓笑(かんしょう)した。夏侯玄が蔣済に代わっても、この風潮を止める事が出来ず、司馬師が夏侯玄に代わり、法令を整頓したので犯す者は無くなった。

魏晋世語(書類)

 

この通りで、魏略の言い分が正しいなら護軍は売官の巣窟であり、それもかなり前から賄賂が横行していたと考えられます。牙門とは、将軍の営門を守る勇猛な武将が任じられたポストであり、それがお金で売買されるのは由々しき問題でした。


蔣済も司馬懿も触れられぬ護軍のタブーの正体

司馬懿と曹叡

 

しかし、考えてみるとおかしな話です。

 

この蔣済、決して権力に弱い人物ではなく、むしろ非常な硬骨漢であり、中書監劉放(ちゅうしょかんりゅうほう)中書令孫資(ちゅうしょれいそんし)に独断専行があると見てとり、曹叡にこのことを諫言して賞賛されるなど曹叡に信任された人物でした。

 

硬骨漢で、他所の腐敗は糾弾できる蔣済が、どうして自分のポストの恥部(ちぶ)を改善できないのでしょうか?

さらに、その事を知っていた、同じく肝が据わっている司馬懿が、これを茶化して笑い話にするだけで鋭く追及しない理由はなんなのでしょうか?

 

これはkawausoが考えるに、護軍で売官を開始した人物が非常な大物であり、しかも当時、存命中で迂闊(うかつ)に改革すると、その人物の逆鱗に触れてしまう、それを恐れた為に、蔣済も司馬懿も庶民のように「市場だったら一銭くらいまけてくれるのにねー!」と茶化す事しか出来なかったのではないか。

 

表情 kawausoさん02

 

そこで、kawausoは蔣済以前の護軍の前任者を調べてみました。

 

【お金で見てみる三国志の舞台裏】
三国志とお金の話


魏の初代護軍は趙儼だった!

 

魏における護軍はいつから始まるのか?

 

敵を相手にして奮闘する張遼

 

そのハッキリした事は分かりませんが、西暦208年曹操が荊州を征伐した時に、趙儼(ちょうげん)章陵太守(しょうりょうたいしゅ)を兼任して都督護軍(ととくごぐん)となり、于禁(うきん)張遼(ちょうりょう)張郃(ちょうこう)朱霊(しゅれい)李典(りてん)路招(ろしょう)馮楷(ふうかい)の7将軍を統括したとあり、ここで趙儼という名前と護軍というポストが登場します。

曹洪と曹操

 

護軍は、元々、曹操が置いた領軍や護軍を発展させたポストで、皇帝や最高権力者が中軍を率いて出征する時は、その参謀や指揮官の役割を担い、通常も皇帝の最高顧問として高い地位にあるとkawausoが「はじめての三国志」で過去に書いたので、初代の護軍は、恐らく趙儼だったのでしょう。

蜀馬に乗って戦場を駆け抜ける馬超

 

さらに西暦211年には、曹操が、潼関(どうかん)の戦いで馬超・韓遂らを破って後、降伏した軍を平南将軍の殷署にまとめさせ、同時に趙儼を関中護軍として諸軍全ての統括を委ねています。二度も護軍を務めた事から趙儼は有能な人物である事が分かります。


趙儼は賄賂大好き腐敗役人だった!

宋銭 お金と紙幣

 

しかし、趙儼には有能さの影に隠れた裏の顔が存在しました。役職利権を使って私腹を肥やすという悪癖があったのです。正史三国志の趙儼伝に引く魏略には以下の記述があります。

 

以前は四征将軍には、官有の料理場と自由に出来る財政の帳簿が存在したので、転任の際にそれを利用しない者はなかった。

 

ところで趙儼は両手を組みながら車に乗り、霸上まで行ったところで常服していた薬を忘れた事に気が付いた。雍州ではそれを聞くと、種々の薬剤が入った数個の箱を送って寄こした。

 

趙儼は笑いながら言った。

「言葉というのは難しいものだ、わしが言ったのは常日頃飲んでいる薬に過ぎぬこんなに沢山の薬が必要なものか」

そう言って、薬を受け取らなかった。

 

 

かなり婉曲(えんきょく)な表現ですが、趙儼は四征将軍の裏帳簿を使って私腹を肥やし、それを雍州の有力者にばら撒いていたのでしょう。だから、雍州の有力者は趙儼の一言、一言に過剰反応し、趙儼が「薬」と言っただけで、あらゆる種類の薬を詰め合わせて届けたのです。

 

ちなみにこの趙儼、征西将軍だけでなく、民屯の人民を勝手に使役して私腹を肥やせる美味しいポスト典農中郎将(てんのうちゅうろうじょう)にも就任しており、荊州、豫洲(よしゅう)、涼州諸軍事や、侍中(じちゅう)尚書(しょうしょ)と累進して、三公の一つである大司農や、司空、さらに驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)になり、西暦245年に75歳で没するまで魏で影響力を行使しました。

 

この調子だと護軍の売官の悪弊(あくへい)は趙儼が産み出し、その後代々根絶できずに受け継がれているという可能性は高いのではないでしょうか?蔣済が護軍として仕事をしているのは、西暦229年頃なので、趙儼は恐らく三公であり、曹操時代からの元勲(げんくん)に盾突く度胸は、いかに蔣済や司馬懿でも無かったのではないかと、kawausoは考えています。

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