8月30日から放送が再開されたNHK大河ドラマ麒麟がくる、次々と発表される新登場人物の中で、皆さんが「この人誰?」と思った人物こそが片岡鶴太郎扮する室町幕府政所執事、摂津晴門です。
一体、この意地悪そうなオジちゃん、何のために大河に出るの?
そう感じた読者は、どうかこのままkawausoの記事を読んで下さい。摂津晴門は足利将軍の切り札とも言える重要な人物だったのです。
この記事の目次
永正年間、摂津元親の子として誕生
摂津晴門は、室町幕府評定衆引付方に属する官途奉行、摂津元親(元造)の子として大永年間(1504年~1521年)に誕生しました。
その後、12代将軍、足利義晴から偏諱を受け晴直、さらに晴門に改名し、享禄元年(1528年)に従五位下中務大輔に任ぜられました。従五位下というのは、公家社会で貴族と呼べる地位であり、晴門は20代の間に昇進していて武家でも名門である事が分かります。
摂津氏は元々、京都の明法家である中原氏の分家で、平安時代には詔勅の訂正や上奏文の起草儀式の執行を司る外記として仕え、鎌倉幕府にも法の見識を買われ任官。13世紀中頃に、中原親致が摂津守に輔任されてより摂津を称し、鎌倉幕府の崩壊後は室町幕府にも仕えています。
官途奉行と
して富裕だった摂津氏
さて、このように公家の血を引くエリートである摂津氏は同時に室町幕府において世襲の官途奉行という役職についていました。
室町時代には、武士の地位は相対的に高くなり、足利将軍家も大臣の座を占める事が普通になりました。勢い、その配下の有力な大名も従五位下、ないし従四位下、中には足利一門に匹敵する従三位に昇るケースさえあったのです。
つまり、武士とはいえ官途が低いのは格好がつかない社会になり、必然的に官途を希望する有力な武士が増えていきました。官途奉行は、その官途仲介と斡旋をする部署で、もちろん見返りに武士は多額の贈物をしています。
室町幕府は有力大名に対し、管領や探題、守護、守護代の輔任、将軍の偏諱、守護や国人領主の叙位任官の仲介料を独自の財源にしていましたから官途奉行の摂津氏は、将軍に取ってはお金を集めてくれる重要な家臣でした。
そんなわけで、足利将軍と摂津氏は親密な関係であり、13代将軍足利義輝の元服の儀式では、摂津元親が奉行を勤め、さらに義輝の乳母、春日局は元親の養女でした。このように摂津氏は、時の将軍に密接に繋がり将軍家と近しい家臣だったのです。
政所執事伊勢氏が離反する
天文19年(1550年)12代将軍足利義晴が死去。
晴門の父の摂津元造は出家しますが、父は官途奉行、地方頭人、神宮方頭人を兼務していたので晴門は父親を補佐して働き、永禄5年(1562年)頃に父が死ぬと官途奉行、地方頭人、神宮方頭人を世襲して摂津氏を相続します。
さて、その頃、足利将軍家と幕府政所執事の伊勢貞孝の間が険悪になっていました。足利義晴は死の床で、政所執事伊勢貞孝を呼び寄せ、義輝を頼むと遺言した程でしたが、その後の京都では三好長慶と新将軍足利義輝の軋轢が顕在化し、天文22年(1553年)両者の間で抗争が勃発。敗れた足利義輝は近江朽木谷へと退避しました。
しかし、政所執事伊勢貞孝は、義輝と同道せずに京都に留まり三好氏と行動を共にしたのです。怒った義輝は伊勢貞孝の領地没収を命じますが、力がない義輝には実行できず義輝と貞孝の関係が決裂しました。
摂津晴門、政所執事に就任
永禄元年(1558年)三好長慶は足利義輝と和睦、義輝は5年ぶりに京都に入ります。次いで永禄4年(1561年)三好長慶の勢力拡大に危機意識を持った近江の六角義賢が京都に侵攻、義輝は三好長慶と戦線を共にしました。
ところが、今回も伊勢氏は動かず、六角氏が占領した京都に留まり政所の政務を執り続け、幕府法を曲げて勝手に徳政を出すなど職権乱用が部下の政所代の蜷川親俊に告発されます。これに愛想が尽きた義輝は、翌永禄5年、六角氏と和睦して京都に戻ると伊勢貞孝を更迭させました。
伊勢氏の政所執事は、1379年からほぼ世襲のように続いていたので、180年ぶりに伊勢氏が放逐された事になります。伊勢貞孝は納得できずに、同年に京都船岡山で挙兵、しかし三好長慶の部下の松永久秀に近江・杉坂で敗れ、息子の伊勢貞良と討死し、伊勢氏の勢力は大きく後退しました。そして、永禄7年(1564年)没落した伊勢氏に代わり政所執事になったのが、ずっと足利義輝に仕えていた摂津晴門だったのです。
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