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この記事の目次
天下二分の計
周瑜の紹介で魯粛に会った孫権は大喜び。部下たちが部屋から退出しても魯粛だけは呼び止めて一緒に語り合います。孫権は今後の方針について魯粛に尋ねたところ、魯粛は次のような答えを返しました。
「漢王朝の再興はもう臨めません。曹操もすぐに倒すことは不可能。そこで孫権様のとるべき道は1つです。この江東に基盤を置いて、天下に飛び立つ機会をうかがうことでしょう。曹操が袁氏討伐を行っている間に荊州の黄祖・劉表を討って、長江全域を支配しましょう」
これは「魯粛密儀」と呼ばれています。日本では「天下二分の計」という名称で呼ばれています。要するに魯粛は曹操が袁氏討伐を行っている間に孫権の長年の宿敵である劉表と黄祖を討ち、荊州と呉を支配下に置いて皇帝を擁立している曹操に対抗しようと孫権に提案したのです。
魯粛のプランを聞いた張昭は「未熟である」と怒ったそうです。おそらく、魯粛のプランには益州と西涼は全く含まれていませんから、そこを突いたのではないでしょうか。しかし孫権は張昭の叱責も意に介さず、さらに魯粛を尊重したということでした。
魯粛の死と墓の場所は?
魯粛はその後、曹操から追われた劉備との同盟を結び、建安13年(208年)に赤壁で曹操を破る功績を挙げました。
魯粛が結んだ劉備との同盟は建安24年(219年)に孫権が荊州で関羽を討つまで続きました。孫権から信頼を得た魯粛でしたが、建安22年(217年)に病死しました。さて、魯粛がどこに葬られたについては正史『三国志』には記されていません。ただし、後の史料で少しずつ明らかになっていきました。
湖北省・漢陽の亀山説
中華民国で出版された『湖北通志』によると魯粛は湖北省・漢陽の亀山に葬られたようです。葬ったのは息子の魯淑であり、葬った後に亀山を魯山と改名したようです。
唐(618年~907年)以降に祠が建設されました。しかし、清(1644年~1911年)末期には祠は残っていなかったようです。参拝者も少なかったらしく、ほぼ無名に等しい場所だったようでした。現在はかなり整備されており綺麗になっています。
湖南省・岳陽説
この墓は有名です。地元の人によると、昔は高さ6メートルもある巨大な墓だったと言われています。清末期に修復しているのですが、その後文化大革命で壊されてしまいました。1984年に再び修復したので、現在は観光地となっています。
三国志ライター 晃の独り言
1か月ほどかけて、横山光輝氏『三国志』のアニメを見ていたのですが、このアニメの声優陣は割と豪華です。曹操は『サザエさん』でノリスケを演じている松本保典氏、孫権は『機動戦士Zガンダム』でカミーユ=ビダンを演じた飛田展夫氏など数えたらキリがありません。余談ですが、飛田氏は『ちびまるこちゃん』の丸尾くんでも有名です。ちなみに魯粛の声優は『ドラゴンボール』で魔人ブウを演じている塩屋浩三氏でした!私はすぐに気づきました。
※参考文献
・李殿元・李紹先(著)・和田浩司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)
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