天正伊賀の乱は、第1次である天正6年と7年、そして第2次天正伊賀の乱が起きた天正9年の2度にわたる伊賀忍者vs織田信長軍の軍事衝突です。伊賀忍者は第1次天正伊賀の乱では、織田信雄を蹴散らして勝利しますが、第2次ではその力を危険視した織田軍の総攻撃を受けて大敗しました。
では、伊賀忍者たちは、圧倒的な織田の大軍を相手にどう奮闘したのでしょうか?
この記事の目次
伊賀忍者はどうやって誕生した?
織田軍団と伊賀忍者の激闘を描く前に、そもそもどうして伊賀の地に忍者という特殊な集団が誕生したのかを簡単に説明しましょう。
伊賀は布引山地に囲まれた山あいの郷でしたが、大和街道を通じて大都市の大坂に近く、商業的には有利な土地でした。一方、土地は粘土質で地味が肥えているとは言い難く、旱魃等が発生すると土手にヒビが入って水が漏れ、水田が干上がるなど悲惨な状況が起こります。
また狭い土地に多くの領主が乱立したので、争いが絶えず、その中で戦闘術が磨かれ忍術へと発展していったようです。
伊賀は大半が東大寺の荘園で、荘園ごとに同族経営が続いていました。しかし、伊賀の荘園は次第に東大寺の支配から独立、室町時代には伊賀国守護の仁木氏が派遣されますが、独立心が旺盛な伊賀国人は容易に従いませんでした。
やがて、応仁の乱が起きて社会が不安定になると「わがとの事は、わがとで決めよやないか!」と伊賀国人は立ち上がり、百地、藤林、服部の有力土豪3家に9人の強豪土豪を加えた12人の評定衆が選定され、守護の仁木氏を追い出して、伊賀独立を達成、伊賀は忍者の持ちたる国になりました。この状態を伊賀惣国一揆と言います。
以来、伊賀では、百地、藤林、服部の3家が上忍として君臨。大和街道の利便性を活かし、忍者の戦闘力や情報収集力を求める大名に傭兵として里人を貸し出してお金を稼ぐようになります。
しかし、その経営方針は、貧しさゆえに、金さえ積めばどこの大名にでも忍者を貸し出し、時には同士討ちも辞さないという節操がないものでした。
皮肉にも、この節操の無さが織田信長に睨まれる原因にもなりました。
そうです!みんな、みんな、貧乏がいけないのです(オイ!)
第1次天正伊賀の乱勃発
天正7年伊賀忍者の1人、下山甲斐は仲間を裏切り、織田信長の次男で隣国伊勢を領有していた織田信雄に、伊賀の団結力が衰えた事を報告し侵略を進言します。
下山の言葉に乗った信雄は、配下の滝川雄利に命じ、国境にあった丸山城を修築して伊賀侵略の牙城にしようと画策します。ところが、そこは情報収集の鬼伊賀忍者、下山が伊賀を裏切った事はすぐにばれ、「丸山城が完成するまでにぶっ壊せ!」で一致団結。
丸山城周辺の神戸、上林、比士、才良、郡村、沖、市部、猪田、衣那具、四十九、比自岐衆が結束し総攻撃を開始します。不意を衝かれた滝川雄利や人夫は大混乱し丸山城を放り出し逃げてしまいました。伊賀忍者の大勝利です。
織田信雄8000の軍勢を数日で瞬殺!
滝川雄利の失敗を聞いた織田信雄は「おのれ、忍者のくせに生意気だ」と激怒、信長の許可も得ずに独断で8000の兵を率いて伊賀国に3方向から侵攻します。しかし、伊賀で何百年も戦ってきた伊賀忍者にとり、よそ者の信雄の軍勢をホームグラウンドで翻弄するのは朝飯前でした。
伊賀忍者は、夜襲や松明を用いた攪乱や山がちの地形を生かした奇襲で、少ない兵力で各地でゲリラ戦を展開、僅か2~3日で信雄は多くの兵を失い、さらに重臣の柘植保重を討たれるなど大敗北して伊勢に逃げ帰りました。
この大失態に信長は激しく怒り、信雄に親子の縁を切るとまで迫りましたが、同時に信雄の軍8000を簡単に敗走させた伊賀忍者の力に恐怖を感じます。しかし、その頃信長は10年続いた石山合戦の最終盤を戦っており自ら伊賀を攻めるというわけにはいきませんでした。
第2次天正伊賀の乱
天正8年(1580年)3月、織田軍に最後まで抵抗した大坂本願寺はついに和睦に応じ、本願寺顕如は大坂を去りました。織田信長の天下統一は目前に迫っていたのです。
ついで、翌年、天正9年4月、上柘植の福地伊予守宗隆、河合村の耳須弥次郎具明の2名が安土城の信長を訪れ伊賀攻めの際は案内すると申し出ます。
織田信長は今こそ、伊賀を滅ぼす好機と確信、天正9年9月27日、5万の大軍で伊賀に侵攻します。
織田軍の侵攻ルートは6カ所で、柘植口から丹羽長秀、滝川一益、玉滝口から蒲生氏郷、脇坂安治、笠間口から筒井順慶、初瀬口より浅野長政、多羅尾口から堀秀政、多羅尾弘光が侵攻しました。
これに対し、伊賀衆は比自山城に3500人、平楽寺に1500人で籠城、攻め寄せてきた蒲生氏郷隊に夜襲をかけ破り、次には筒井順慶隊に襲い掛かりますが、筒井隊にいた伊賀忍者、菊山清九郎に気づかれて失敗1000人を討ち取られました。
蒲生氏郷は怒り平楽寺を攻撃しますが退けられ、滝川一益の援軍を得て、ようやく陥落させます。もうひとつの拠点である比自山城は、丹羽長秀が幾度となく攻め寄せましたが、何度も敗北し果たせませんでした。
しかし、伊賀衆は、筒井順慶、滝川一益、丹羽長秀が合流すれば、比自山城では防げないと考えあっさりと城を放棄、翌日、比自山城に総攻撃をかけた筒井順慶や堀秀政は、もぬけの殻の城を見て地団駄を踏んで悔しがり、比自山城や近隣の諸堂をことごとく焼き払っています。
勝っているように見える伊賀衆ですが、すでに筒井順慶に味方して夜襲を阻止した菊山清九郎等、裏切って織田家についた伊賀忍者も多く、奇襲や攪乱戦法が上手く行かず、次第に追い詰められ、柏原城へと落ち延びていきました。
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