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劉備の死因 『三国志演義』の場合
さて、劉備はどんな病気で亡くなったのでしょうか?『三国志演義』では全く触れていません。
私が読んだ限りでは心労で片付けたがっているように感じます。義弟の関羽・張飛を相次いで失ったり、呉との戦での敗北はちょうどよいネタと作者には思ったのでしょう。確かに心労の方が読者の共感を呼びますからね・・・・・・
史実に劉備の死因
史実の劉備の死因はどんなものだったのでしょうか?
正史『三国志』には、劉備の死因について何も言及されていません。
ただし、正史『三国志』に注を付けた裴松之が史料として採用した『諸葛亮集』という史料には劉備の死因について「下痢」・「雑病」と書かれています。『諸葛亮集』も陳寿が執筆したものです。陳寿は正史『三国志』には、あえて書かなかっただけでしょう。
下痢とは?
昔の人がいう下痢とは現代のように消化不良で起こるものとは違って、伝染性の下痢を指します。細菌やアメーバから引き起こされるものです。
昔は衛生状況が良くなかったので当たり前のように起きていたのでした。劉備の下痢は12月のことであり夷陵の戦いの後の話。おそらく戦後に食物から水に当たったのでしょう。
雑病とは?
次に雑病について解説します。雑病は「コレです!」と特定する病はありません。どうやら悪性の風邪、急性の熱発以外の症状を指すようです。つまり軽い風邪・・・・・・
雑病になる原因は「喜び・怒り・憂い・悲しみ・思い・恐れ・驚き」の7つと言われています。要するに劉備の死因は長く細菌性の下痢を病んで治らず、体が虚弱体質になっていき精神的にも参っていったということです。
三国志ライター 晃の独り言
劉備の死因は昔から議論の対象になっていました。1番古くて東晋(317年~420年)の時代から行われており、医者の葛洪(かっこう)は『神仙伝』という書物の中で劉備が精神的な病をわずらっていたことを指摘しました。
葛洪の指摘は根拠に欠けているとして、かつては見向きもされなかったのですが近年は医学会では重要な指摘と言われています。
※参考文献
・李殿元・李紹先(著)和田武司(訳)『三国志考証学』(講談社 1996年)
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