三国志演義の最初の見せ場、と言ってもいい虎牢関の戦い。袁紹を総大将とした曹操……じゃなかった、そうそうたる面子が集って悪漢、董卓を討伐に参加。
しかしそこで現れたのは最早人と同列に語るのも難しい、絶対的強者、呂布。彼らは如何にして戦うのか……となるイメージの虎牢関の戦いですが、実際にはほとんど内輪もめで終わった?
今回はこの虎牢関の戦いについて解説していきましょう。
この記事の目次
三国志演義の虎牢関の戦い
さて、前述したように三国志演義の虎牢関の戦いと言えば、序盤の盛り上がり最高潮の場でしょう。これから時代の担い手となる武人たちの顔合わせとも言える場面であり、後の英傑たちが揃っています。
そして敵はこれまた強大かつ、悪人中の悪人と言ってもいい董卓、そして最強の武人、呂布。彼らと反董卓連合軍が洛陽郊外の虎牢関・汜水関にて激突する……とうのが虎牢関の戦いです。
正史の虎牢関の戦い~ざっくり~
では正史での虎牢関の戦いはどんなものだったのか、まずはざっくり全体を説明していきましょう。
まず虎牢関の戦いというものはなく、陽人の戦いというのが三国志演義でいう所の虎牢関の戦いに相当します。これは191年に反董卓連合軍を結成した袁術、孫堅らと董卓軍が戦ったものです。この際に猛将・華雄が討ち取られ、形勢不利を悟った董卓は洛陽を焼き払って、長安へと撤退しました。
これがざっくりとした虎牢関の戦い、もとい、陽人の戦いです。
陽人の戦い……不穏な始まり
ではもう少し詳しく見ていきましょう。
191年、孫堅は陽人に兵を置きました。この際に董卓によって派遣されたのが呂布……ではなく、胡シンです。胡シンは武勇に優れており、董卓から信用されていたのですが、傲慢で短気な性格から呂布を含めて部下たちからは嫌われていました。
この際に呂布たちは敵である孫堅に勝つことより、胡シンが負けるように、と思われているようなありさまだったのです。
スタートから不穏すぎる
董卓は胡シンを派遣した際に「野営して休息してから孫堅と戦うように」と命令していたにも拘らず、胡シンは呂布から「孫堅陣営の敵は逃げたらしいから追わないと手柄が立てられませんよ」と偽情報を握らされ、日が暮れて兵士たちも疲れ切っているのに真夜中に孫堅を強襲。
孫堅軍に追い返されて疲れ切った兵士たちは塹壕すら作れないままそのまま野営するという有り様になりました。
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