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カール大帝とはどんな人?西ヨーロッパの始皇帝の生涯


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西ヨーロッパの始皇帝の生涯(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西ヨーロッパのカトリック化とフランク王国の中央集権を整備

 

カール大帝は、諸国を征服して終わりではなく、以下のような統一事業を手掛けています。

 

①征服した各地に教会や修道院を建設し、付属する学校では古代ローマの学問やラテン語研究が進んだ。

②フランク王国内の教会ではローマ式典礼を採用、教会に支払う10分の1税を義務化し、重要な官職には聖職者をつけ住民をすべてカトリックに改宗させるなど宗教を統一した。

③占領地域に、カール大帝の官僚「伯」を派遣し軍事、行政、司法権を与え、地方の独自性を薄め、巡察史を定期的に派遣し中央集権を進めた。

④内政面では、アインハルトやアルクィン、スペインのテオドゥルフ、イタリアからピサのペトルスやパウルス・ディアコヌスなど当時の高名な学者や知識人、修道士を宮廷に招聘(しょうへい)。カロリング朝ルネサンスと呼ばれるラテン語の教育に基づく文化運動を進めた。

⑤東方の大国アッバース朝に数度の使節を交換して友好関係を保持した。

 

このようにカール大帝は、征服した諸国に自分の子飼いの家臣を伯として送り込み、カトリックを中心とした宗教統一を図って学問を盛んにし現在に繋がる西ヨーロッパに共通する文化と宗教を確立する事に成功しました。

 

現在のEUだって、カール大帝がいなければ、各国の文化の隔たりが大きすぎて成立しなかったかも知れないのです。

 

ただし、カール大帝の方針に対するザクセンやバイエルンのような部族の反発も根強く、カール大帝は、宮殿を一カ所に留めずに王国内を転々として各地の在地勢力に圧力を掛け統一の体裁を維持していたのも事実でした。

 

カール大帝の戴冠

セミナリオ(教会)

 

西暦800年の11月、カール大帝は、バチカンのサン・ピエトロ寺大聖堂でのクリスマスミサに列席すべく、長男カールや高位の聖職者、伯、兵士などから構成された大随行団を従え、イタリアへ向けて5度目のアルプス越えをします。

 

カール大帝の一行はローマから15キロの地点でローマ教皇レオ3世より直々の出迎えを受けました。そして、西暦800年のクリスマス、午前中のミサで、レオ3世はカール大帝にローマ皇帝としての戴冠(たいかん)を受けたのです。この事実を根拠に歴史的にはカール大帝を神聖ローマ帝国初代皇帝と見做す事もありますが、この戴冠式は事情が複雑でした。

 

それというのも、この時を遡る事3年前、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、エイレーネがローマ皇帝史上初めての女帝として即位していたからです。

 

この経緯を簡単に説明しますと(本当に今回はややこしい)古代ローマ帝国は西暦395年にテオドシウス1世により、東を長男アルカディウスに、西を次男のホノリウスに与えて東西に分裂しました。

 

その後、次男ホノリウスの西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵攻に悩み、事態を解決できないまま、西暦476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより皇帝が廃位され消滅します。

 

これにより、西ローマ帝国は消え、東ローマ帝国だけが唯一の皇帝になったように見えますが、事実は西ローマ皇帝は空位であるだけで、その後も、西ローマ帝国内のゲルマン系の諸国王は、西ローマ帝国の官人として振る舞っていました。

 

混乱していた西ローマ世界ですが、8世紀末にカール大帝が率いるフランク王国が西ヨーロッパを纏めて巨大な勢力を握ると、ローマ教会は東ローマ帝国皇帝とギリシャ正教に対抗する必要から、カール大帝をローマ皇帝として戴冠したのです。

 

このような思惑から、カール大帝は戴冠したのですが、当然、東ローマ皇帝はカール大帝の戴冠を認めず、ローマ教会は女帝を認めずと問題はこじれ、一時はカールとエイノーレが結婚する事で東西ローマ帝国をもう一度合併する案も出ましたが、その途中でエイノーレがクーデターで帝位を追われたので、全ては流れてしまいました。

 

カール大帝の死後、フランク王国は分裂

 

西ヨーロッパの統一を成し遂げたカール大帝ですが、やはりゲルマン人であり、王国の継承は、「兄弟間の連帯による統一というフランク的な王国相続の原理」に従い、西暦806年に「国王分割令」を定め、嫡男のカール若、次男のランゴバルド分国王ピピン、末子のアクイタニア分国王の3人を後継者にしました。

 

しかし、810年にピピンが、811年には嫡男のカールが先立って死去、やむなくカール大帝は813年に残ったルートヴィヒを共同皇帝とし814年1月28日、ドイツのアーヘンで71歳で死去しました。

 

フランク王国を継いだルートヴィヒ1世ですが、父のカール大帝には遠く及ばず、彼の死後、843年にヴェルダン条約が締結。ルートヴィヒの遺児であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続する事を決定。

 

これにより、東フランク王国、西フランク王国、中フランク王国が誕生し、現在のドイツ、フランス、イタリアの原型になります。

 

カール大帝経歴

 

・西暦742年頃:ピピン3世と正妻ベルトレドとの間に生まれる(異説あり)

・西暦768年:ピピン3世死去、弟のカールマンとフランク王国を共同相続、アウストラシアとネウストリアを相続する。

・西暦771年:弟カールマンが死去し、その妻のゲルベルガと幼子が亡命するとブルグント、プロヴァンス、ラングドックを相続しフランク王国全土の王となる。

・西暦772年:ドイツ北部のゲルマン人の一派、ザクセン族を服属させようとザクセン戦争を開始。

・西暦774年:ランゴバルド首都パヴィアを占領しランゴバルド王に即位。

・西暦778年:イベリア北部に侵攻、ピレネー山脈越えの途中にバスク人の襲撃を受けて大敗する。

・西暦788年バイエルン族を攻め、大公タシロ3世を追い込み、これを征服する。

・西暦791年:ドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原のアヴァールを討伐し、アヴァール辺境領を置く

・西暦795年:ピレネー南麓にスペイン辺境領を置く

・西暦796年:アヴァールに再侵攻、宮殿まで到達して大規模略奪を行い、フランク王国の領地を東へ拡大

・西暦800年:レオ3世によりバチカンのサン・ピエトロ大聖堂で戴冠式を行いローマ皇帝となる。

・西暦806年:国王分割令を出し、カール、ピピン、ルートヴィヒを後継者とした。

・西暦814年:アーヘンにおいて71歳で死去。

 

世界史ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われ、「ヨーロッパの父」とさえ呼ばれ、1165年には、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によりカトリックの聖人として列聖までされています。

 

これほど、ベタ褒めされているヨーロッパの人物は珍しいと言えるでしょう。特にカトリックを保護し、十分の一税を確立して、教会の収入を安定させているので、カトリック教会にとっては恩人ですね。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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