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カール大帝とはどんな人?西ヨーロッパの始皇帝の生涯


 

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初代神聖ローマ皇帝・カール大帝

 

カール大帝(たいてい)は、フランク王にしてローマ皇帝、そして初代神聖ローマ皇帝ともみなされます。世界史ではかならず登場する人物ですが、具体的に何をした人か?についてはうろ覚えの人が多いのではないでしょうか?

 

実はカール大帝、ヨーロッパ人にとっては、足を向けて寝られない程の大偉業を成し遂げた人でした。今回は、そんなカール大帝を出来るだけかみ砕いて解説します。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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カール大帝以前の欧州

 

欧州の歴史については、馴染(なじ)みがない方も多いと思うので、簡単にカール大帝以前の欧州について解説します。ゲルマン民族の大移動に起因する西ローマ帝国の滅亡により西欧は部族が林立する状態に戻ります。

 

そんな西欧のゲルマン人の中からフランドルを支配していた小国の王クロヴィス1世が勢力を伸ばし現在のフランス、オランダ、ベルギー、ドイツの広大な範囲に跨る全フランクを統一して481年にメロヴィング朝を開きました。

 

強大なメロヴィング王朝ですが、相続においては兄弟で領地を分ける方式を取っていて、メロヴィング王朝は、アキテーヌ、ブルグント、アウストラシア、ネウストリア、ブルターニュと領地を分割させます。

 

これは領土の分割ではなく、あくまでも王朝の財産相続であり各地の王が相続人なく死ぬと他の王に領土が相続されたので、王朝の領土は保持されていました。

 

しかし、7世紀に入ると、領地分割が繰り返される事で、各地域で自主独立の気風が強まり、次第にメロヴィング王朝は、統一した動きが出来なくなります。

 

さらに、7世紀の後半からは、各王国内で行政と財政を司る宮宰(きゅうさい)が台頭し王を凌ぎはじめます。アウストラシアの宮宰だったピピン3世は、西暦751年、メロヴィング朝最後の王キルデリク3世を幽閉しメロヴィング朝は断絶、カロリング朝が開かれました。

 

このピピン3世の長男が今回紹介するカール大帝になります。

 

カール大帝ピピン3世の子として誕生

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カール大帝はピピン3世の長男として産まれました。しかし、出生については詳しい事は不明です。実際には、ピピン3世が正妻ベルトレドを迎える前に生まれた私生児ではないかという説もあり、それがカールの王としての正当性に触れる問題なのであえて、出生の事は削除して記録を残さなかった可能性もあるようです。

 

父であるピピン3世にはカールとカールマン、それに娘のギゼラがいましたが相続権は男子にありました。カールとカールマン兄弟は西暦768年のピピンの死後、フランクの相続法に従いカロリング王朝の領土を2分、カールはアウストラシアとネウストリアを、カールマンはブルグント、プロヴァンス、ラングドットを相続します。

 

しかし、2人は不仲だったようで西暦771年にカールマンが死去するとカールマンの妻、ゲルベルガは幼子と共にランゴバルド王国へ亡命。これは相続を放棄したと見做され、カールはカールマンの領地を吸収しフランク全域の王となります。

 

でも、カールマンは領地相続から僅か3年後の死、さらに妻と幼子の亡命を見ると、これカール大帝による弟の暗殺なんじゃないですかね・・・

 

古代オリンピック

 

欧州の始皇帝カール大帝の征服の旅路

何度も軍事遠征を行う好戦的なカール大帝

 

カール大帝の生涯の大半は遠征旅行で彩られていました。単独統治になった46年で何と53回の軍事遠征をしています。すべてを細々書くと覚えるのが面倒なので箇条書きで、その遠征のあらましを紹介します。

 

①西暦770年、義父にあたるイタリア、ランゴバルド王国のデシデリウスがローマ教皇への影響力強化を狙い、教皇領攻撃を開始。西暦773年、ローマ教皇ハドリアヌス1世がカール大帝に援軍を求めると、カールはデシデリウスの娘と離婚しアルプス山脈を越えランゴバルドの首都パヴィアを占領。デシデリウスを捕虜にして鉄の王冠を奪い、自らランゴバルド王になりローマ教皇領の保護者となる。

 

②西暦772年、ドイツ北部のゲルマン人の一派、ザクセン族を服従させようとザクセン戦争を開始するが、ザクセン人の抵抗は激しく、32年後の804年まで戦争は続いた。

 

カール大帝は、頑強に抵抗したザクセン族を処刑、追放し、降伏したザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させエルベ川からエムス川にかけての広大な地域がフランク王国に服属した。

 

③西暦778年、後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア半島北部のムスリム勢力の救援依頼を受けたカール大帝は、勢力拡大の好機と見做しイベリア北部に遠征。

 

サラゴサのムスリム勢力を制圧して人質を出させた事で満足し撤退するがピレネー山脈越えに差し掛かったところでバスク人の襲撃を受けて多くの兵士と将軍を失う。

 

そこで、カール大帝はピレネー南麓にスペイン辺境領を置き、スペインの後背地のアキテーヌをフランク人による直接統治の下に置こうと考え息子のルートヴィヒ1世(ルイ1世)を王としてアキテーヌ王国を創設。アキテーヌの完全掌握を目指し、アキテーヌ全土の伯と修道院長をフランク人から任命。西暦801年には支配地がバルセロナまで広がる。

 

④北でフリース族と戦い、西ではブルターニュを鎮圧しドナウ川上流のバイエルン族を征服。791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原のアヴァールを討伐し、フランク王国を東に大きく拡張する。

 

カール大帝の半世紀近い遠征の結果、フランク王国はベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土とドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの一部に拡大。

 

これにより、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端を除く、西ヨーロッパ世界の政治統一を達成、ゲルマン民族の大移動以来、混迷を極めた西ヨーロッパを安定に導いたのです。カール大帝は、まさに西ヨーロッパ版、秦の始皇帝だったのです。

【次のページに続きます】

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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