まさに「イメージ」というものの怖さでしょうか。
「安土桃山のオオモノ武将で、性欲絶倫で、側室を20人ほども抱えていた人物」というと、どうしても豊臣秀吉のイメージが出てくるのではないでしょうか。
そのライバルにあたる徳川家康については、女性関係については関心の薄い「実直なリアリスト」というイメージがついてまわっているように思えます。
ところが、秀吉が抱えていた側室はたしかに約20人、いっぽう、家康が抱えていた側室も、約20人と言われています。意外なことに、側室の数で言うならば、秀吉と家康は互角なのです。
もっとも秀吉は、美人で有名な淀君とのエピソードが象徴するように、どちらかといえば純粋に「美女好き」という性向から、そうした生き方を選んでいたように見えます。いっぽうの家康の場合は、どんな基準で側室を引き抜いていたのでしょうか?
今回は家康の側室たちの顔ぶれを確認しながら、彼の側室選びの傾向を追ってみたいと思います。
この記事を通じて再考すると、
「たくさんの側室を囲い込んでいたなんて、家康もスミにおけないな」と一瞬思った方も側室選びですら「実直なリアリスト」という路線でブレない家康のキャラクターに、ますます驚愕するかもしれません。
この記事の目次
家康が側室に求めた基準は「人生の苦労を知っている未亡人」?
家康を取り巻く側室には、ひとつの傾向があります。家康と出会う前に何らかの結婚経験があり、しかし先夫に先立たれた人、つまり「未亡人」を好んで側室に迎えていた点です。
・たとえば、側室ながら後の二代目将軍秀忠の母となった西郷局は、先夫との間に一男一女を授かっていた、出産経験ありの未亡人だった
・側室の一人、阿茶局は、2人の男児を産んだことのある、これまた出産経験のある未亡人だった
・側室の一人、茶阿局(名前が似ていますがさっきの方とは別人)は、夫を殺されるという不幸に遭い、娘一人を連れて家康に旦那を殺害した代官の悪行を直訴しにきた未亡人である
などなど。
これはどういうことでしょう。ひとつには、何かと領国経営については面倒見のいい家康が、領内で夫に先立たれた寡婦がいると聞くたびに、できるだけ養ってやろうという男気を見せていた、という解釈があります。
ですがそれも、もう少し穿った見方をすると、
「若くて美しい女性などより、人生経験の豊かな未亡人のほうが信頼できる、それも子育て経験のある女性なら、自分の子供ができたときに跡継ぎ教育を任せられる」
という、いかにもリアリストとしての計算で側室を選んでいたようにも、思えてしまいます。
実際、こうした経験豊かな側室たちに囲まれた家康は、最終的には11男5女という子沢山に恵まれました。母親経験者の女性たちをがっつりと囲い込むという、家康の家族計画の成功と言えるのではないでしょうか。リアリストの発想で背筋が震えますが。
「側室であっても軍事に外交にと働いてもらいます」:タダメシ食いには興味のない家康
家康の側室選びにはもうひとつ、傾向が見られます。以下の側室の例を見てみましょう。
・先にも名前の出た阿茶局は、大坂の陣では豊臣方との交渉役に抜擢され、外交の場でも活躍した人物である(「家康の使いで交渉役をやる」ということは、相手を籠絡したり罠にかけたりする陰謀の手伝いを引き受けることと同義、という点に注目ください!)
・これまた側室の一人の「お梶の方」は、関ケ原の合戦や大阪の陣においては、男装して家康に同行していた。戦場で家康の陣地が危機にさらされたときは、家康を守るように付き添っていたとされるから、言ってみれば「身の回りの世話をする秘書」と「ボディガード」を兼ねるような立ち位置にいたのかもしれない
こういう事例を見ると、家康の側室になるということは、戦場への同行や、外交交渉への派遣といった役割も、必要に応じて要求された様子です。家康が経験豊かな大人の女性を側室に選びがちだったのは、家庭を安泰に守らせるだけではなく、優秀な才覚のある女性に「側室」という肩書でいろいろと重要な仕事も手伝わせるという、家康ならではのマネジメントの妙だったのかもしれません。
「側室だからといっても働いてもらう!」まさに「タダメシ食いを許さない」リアリストの家中!
まとめ:このような家康の女性関係について現代人はどう評価すべきか?
いかがでしたか?
美女に溺れがちだった秀吉と比較して、家康の側室選びはずいぶん現実的で、堅実な印象ではないでしょうか。
戦国時代ライター YASHIROの独り言
これも先入観としての「イメージ」のせいかもしれませんが、まさにリアリストと呼ぶにぴったりな女性関係のように見えてきてしまいます。
これを、あらためて秀吉と比較すると、どうでしょうか?
どちらのほうに、好意が持てますでしょうか?
もっとも、男女平等が進んだ現代人の目から見れば、秀吉も家康も
「どっちもどっちで、キモちわるくてイヤだ!」と言われて、おしまいかもしれませんが。
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