真田幸村はなぜ家康に挑んだ?働き盛りの時期を奪われた中年男の逆転劇


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真田丸 真田幸村

 

大阪の陣で活躍する、真田信繁(さなだ のぶしげ
)
こと「真田幸村(さなだゆきむら)」。冬の陣では「真田丸(さなだまる
)
」の名称で有名な出城に陣を置いて徳川方を翻弄し、夏の陣では徳川家康(とくがわ いえやす
)
の本陣に迫る決死の突撃を行います。江戸時代を通じて、そして現代に至ってもなお「名将」として語り継がれる真田幸村。それにしても、これほどの才能に溢れる武将が、なぜ最後の最後まで豊臣方で戦い続けたのでしょうか?

合戦シーン(戦国時代の戦)

 

彼が活躍する大阪の陣は、もはや戦国時代最後の戦争。ものすごくイヤらしい現代人の発想をしてしまうと、せっかくここで活躍し評判になったのなら、適度なところで徳川方に寝返って家康から恩賞を受け、直後にやってくる江戸時代でぬくぬくと平和な隠居生活を送る、などという手もあったように思ってしまうのですが。


これだけ深い!関ヶ原で「反徳川」に立った人々との強いキズナ!

真田丸

 

ですが真田幸村の前半生を振り返ると、彼が徳川方につくことが、運命としてほとんどあり得なかったことがわかります。彼は以下のような人々との強いキズナに満ちた青春時代を送っているからです。

 

・上杉景勝のところに人質に出されていたことがある。この時、上杉家からの扱いは悪くなかったようで、上杉家の部将の一人として領地も少し与えられていた他に、上杉軍と同行で戦に参加しいろいろ経験を積ませてもらっている

 

豊臣秀吉 戦国時代

 

・その後、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の人質になった。この時も秀吉および豊臣家の人々からの扱いは悪くなかったようで、側近の一人として大阪で大事にされながら青春時代を送った

 

・ここで豊臣秀吉の寵臣たちと仲良くなる。そもそも、真田幸村の妻である竹林院(ちくりんいん
)
は、大谷吉継(おおたに よしつぐ
)
の娘である!

 

上杉景勝(うえすぎ かげかつ
)
といえば、関ケ原の際に会津で挙兵をして家康を東日本に陽動した人物であり、大谷吉継といえば、同じく関ヶ原で西軍に加わり、獅子奮迅の働きを見せて戦死した名将です。そのうえ、豊臣秀吉とその家族たちとも日々接する機会に恵まれた青春時代を送っていたとなれば、真田幸村は豊臣家が「もっとも輝いていた時代」に対して特別な思い出を持っていた人物、と言えることになります。


関ヶ原の戦いで暗転した人生:現代でいえばつまり失業者生活!

 

そのような日々が暗転してしまったのが、関ケ原の合戦。かつてあれほど仲良くしていた諸将たちも、続々と戦死したり、刑死したり、悲惨な運命を遂げてしまいました。とりわけ、妻の父である大谷吉継は戦死。豊臣秀頼(とよとみ ひでより)淀君(よどぎみ)は大阪城に押し込まれる生活を余儀なくされます。

 

真田昌幸

 

そればかりでなく、真田幸村と、彼の父である真田昌幸もまた、関ケ原の際に豊臣方に呼応した為に、追放の憂き目を見ます。居城から追い出された真田幸村は、関ケ原の合戦から大阪の陣までの十五年間、浪人として貧乏生活を続けるしかなくなったのでした。

 

考えてみれば、この十五年間という時期、真田幸村は三十代から四十代半ばという年齢。武人としてはもっとも働き盛りのはずの時期、今でいう失業者生活を余儀なくされていたわけです。かつて上杉家や豊臣家の名将たちと交流し、戦に関する知識も才能もあり、「さて、これから!」という年齢に差し掛かっていた幸村にとって、どれほど辛い時期だったことでしょう。

 

例えるなら、若いころに英才教育を受け、確実に才能を開花させていた矢先のスポーツ選手が、政治問題に巻き込まれたせいで、いちばん体力気力が充実しているはずの年齢の時に強制的に引退させられてしまったようなものです。たいへんな鬱屈と恨みだったのではないでしょうか?


大阪の陣に参戦した時にはもう中年だった!これが武将として最後のチャンスだった幸村

真田丸

 

つまり大阪の陣に参じた時の幸村は、もう四十代後半、中年のオジサンだったのです。まして十五年のブランクですから、どこまで才能が枯渇せずに残っているのか、本人も周囲も半信半疑だったのではないでしょうか。ところが、大阪の陣における真田幸村の活躍は、前述したとおりたいへんな勢い。またたくまに、豊臣方の諸将たちの中で一目置かれる人物になった上に、敵の徳川方の諸将の間でも評判になってしまったのでした。

 

働き盛りの年齢の時に仕事を奪われていた男にとって、一気に承認欲求も満たされたわけで、本人としても大阪の陣は「つらいけど楽しい!」自己実現の日々だったのではないでしょうか?

 

真田昌幸と徳川家康

 

この時期の真田幸村に、たとえ徳川方から「お前ほどの才能の武将が寝返ってくれれば破格の待遇をするぞ」という声が掛かったとしても、応じることはなかったでしょう。豊臣家に対して強い思い出がある、というだけではなく、人生で初めて、「自分が戦の天才だった」ということを自分で発見した上に、世の中にも認めさせてしまっている日々だったのですから。


まとめ:徳川家を苦しめたのに江戸時代の庶民から大人気!これでよかったのかもしれない

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

だいいち大阪の陣は、戦国時代の最後の戦い。これを終えたら、戦の時代も終わりになると、どこかで予感していたかもしれない真田幸村は、もともと豊臣方が勝利するかは度外視で、「とにかくこの戦いでどこまで自分の才能を発揮できるか完全燃焼してみたい!」という熱い想いで戦っていたのではないでしょうか?

 

その成果は、彼が戦死した後の江戸時代にあらわれました。徳川家をこれほど苦しめた武将であったにも関わらず、真田幸村の名前は伝説化し、江戸時代を通じて庶民の間で大人気となったのです。さしもの徳川家も、真田幸村ほどの活躍をした人物の人気をおとしめることはできなかった模様です。

 

戦国史ライター YASHIROの独り言

三国志ライター YASHIRO

 

その人気は現代まで続き、「真田幸村といえば戦国時代を通じての指折りの名将の一人!」という評価がすっかり定着しています。後世の評判までを幸村が計算して戦っていたのかはわかりませんが、これほどの人気が400年後にまで続いているという点、働き盛りを一度奪われたところから復活した男としては、満足なのではないでしょうか?

 

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