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この記事の目次
武陵蛮としての沙摩柯
仮に沙摩柯が武陵蛮だとすると、彼らは、それまでに何度も呉と戦い続けた存在でした。正史三国志の黄蓋伝でも、武陵太守になった黄蓋が反乱を起こした武陵蛮を鎮圧して、首謀者を処刑して残りは赦し、野蛮な風俗を改めさせて、周辺の情勢を安定させたと出ています。
元々、武陵蛮は古えの楚の人々で、自分達の古い生活様式を墨守しつつ漢族とも、仲良くやってきたというタイプの異民族です。しかし、三国の時代になると呉が人口不足を補う為に、異民族を兵力として組み込みだしたり、漢族が戦乱を逃れて流入し、テリトリーを犯し始めたので、それに不満を持って叛いたりした事例が出て来ます。
沙摩柯も、呉の支配を嫌って劉備に呼応した武陵蛮の1人だったのかも知れません。武陵蛮は見た目こそ、THE南蛮だったようですが、漢族との混血も交流もあるので漢語も通じ、通訳なしに意思疎通が出来る、隣の蛮人でした。その為、劉備が仲間につけるには最適の相手だったのでしょう。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義と正史三国志の沙摩柯ギャップは、悪役プロレスラーみたいなものですね。魔王も震え上がる地獄の使いなんてキャッチフレーズで、花道ではiyaaaaaaaaa!と鎖を振り回し観客を怖がらせ暴れまくりますが、試合が終わると楽屋では
「今日、自分どうでした?もう少し派手に暴れた方がいいっスかね?」と善玉レスラーと真剣に反省会をするイメージです。
読者ちゃんは、沙摩柯についてどう思いますか?
参考文献:正史三国志
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