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兵糧攻めに弱い京都
京都は戦国期においても、人口10万規模の突出した都市であり、博多や大坂の2倍の人口を持っていました。逆に言うと、当時の農業技術で京都人口を地元農業で支える事は出来ないので、消費地として、大和街道や京街道から運ばれる物資が必要不可欠です。
つまり、兵糧攻めが有効な都市という事で、外部から物流を遮断してしまえば、狭い京都内の物資はたちまち枯渇して飢餓が蔓延する事になりました。
応仁の乱でも、初期の合戦は京都市中で行われましたが、次第に戦場は、東山、山科、鳥羽のような近郊へと移動しています。この理由は、補給路を確保する事と、敵の補給路を遮断する為でした。敵と味方に大きな物量差がつけば、補給を遮断するだけで京都を守備する側は戦いを断念しないといけない事態に陥るのです。
京を城塞都市にした豊臣秀吉
京都は天皇や室町将軍の座す場所であり、権威の象徴の意味合いを持ち続けていました。そこで、一度、京都を確保したら何としてでも守らないといけません。奪われてしまえば権威の失墜になり、その後の戦略にも支障が出てしまいます。
山崎の合戦で明智光秀を葬り、賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破って、天下人を継承した羽柴秀吉は、九州、関東と長期遠征をする事が多いせいか、京都の防御力を少しでも高めようと、御土居と呼ばれる土塁で上京区と下京区をぐるりと覆いました。
御土居の範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形で全長は約22.5kmあります。必ずしも直線ではなく西側には、数箇所の凹凸が存在していました。ただし、御土居は城壁ではないという説もあり、内容は以下のようなものです。
①土塁の上に竹を植えており視界が悪く、兵士が土塁の上を移動するのに不便
②面積が広大で土塁を守るのに大勢の兵士が必要
③濠が城壁の内側にある箇所があり、土塁を占拠されたら取り返すのが難しい
④櫓のような防御施設がなく、扉も単純な構造
しかし、それでも外からの騎馬や車の侵入を阻止し、鉄砲や弓矢の攻撃を阻止するには十分な構造であり、城壁ではなくても障壁とは呼べるでしょう。他にも、秀吉は戦乱で荒廃し洛中・洛外の境界が曖昧になった京都に御土居を築いて、洛中の範囲を定めたのだという説もあります。
戦国時代ライターkawausoの独り言
大和朝廷に力があった時代に建設された京都は、防御よりも利便性に優れた都でした。実際に戦国期でも、10万人規模の人が住む一大消費地となり、それが兵糧攻めなどにも弱い脆弱な都市の存在に拍車を掛けています。
京都を長い期間支配下におくのは大変な事であり、それが取りも直さず戦国大名の有能さや財力、外交能力を図る指標と言う事になるかも知れません。
参考:Wikipedia他