日本の戦国時代には、徳川家康の臣下で鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)という忠義の士がいて、
長篠の戦いの最中に武田勝頼に捕らえられ、長篠城に籠城する徳川の兵士に「援軍は来ない降伏せよ」と告げれば、
重く用いてやろうと誘いを掛けられるが、これを断り、逆に「援軍は近いぞガンバレ」と叫んで
磔(はりつけ)にされた逸話があるが、正史三国志の三少帝紀(さんしょうていき)にも似たものがある。
諸葛恪が合肥新城(がっぴしんじょう)を包囲していた頃、鄭像(ていしょう)という戦士が
城外の味方と連絡を付ける為、合肥新城を抜け出したが、
諸葛恪にこれを告げたものがあり諸葛恪は騎馬隊を派遣して、柵あたりの足跡を調べさせついに鄭像を捕えた。
4~5人の兵士が、鄭像の首に馬に架けるおもがいを被せて、
「救援軍は全て洛陽に帰還したから早く投降せよ」と言わせようとしたが、鄭像は逆に声を張り上げて
「大軍は間近まで来ている、勇士たちよ勤め励めよ」と叫んだ。
兵士たちは刀を鄭像の口に刀を当てて黙らせようとしたが鄭像は決してひるまなかった。
これは、鳥居強右衛門の元ネタのようによく似ている。
曹芳は、鄭像を兵卒ではなく部隊長として葬るように指示し関中侯の爵位を与え、子孫たちも兵戸から外し、
関中侯の爵位を継がせるように命じた。でも、鳥居強右衛門よりは有名じゃないな…
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