ローマ皇帝って、一方では哲人的な五賢帝の時代があるかと思えば、1年未満で皇帝の首がポンポン挿げ替わる混乱期があったり、色々な意味でこの人大丈夫?という暴君が出たりします。
今回は、よく言えばバラエティ豊か、悪く言えばアップダウンが激しすぎるローマ皇帝たちから、暴君の代表、3代皇帝のカリグラを紹介します。
この記事の目次
父は偉大な将軍ゲルマニクス
カリグラ(ガイウス・ユリウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス)は、西暦12年8月31日にアンツィオの保養地で、父ゲルマニクスと母大アグリッピナの間の3番目の子供として誕生しました。
父のゲルマニクスは優秀な将軍で、初代ローマ皇帝アウグストゥスが養子にし、ゆくゆくはもう1人の養子のティベリウスを中継ぎとして皇帝に即位すると噂されていました。
将軍として各地を転戦したゲルマニクスは家族を同伴しており、2歳から3歳のカリグラも子供用の特別な軍装を身に着けて兵士と共に行動していました。カリグラとは、その時に兵士につけられたあだ名で意味は「小さな靴」です。
愛らしいカリグラは、兵士には癒しになったらしく、とても人気があったそうで、ある時、暴動を起こした兵士に危害を加えられる事を心配し、ゲルマニクスが家族を属州に引っ越させようとすると、「カリグラを自分達から遠ざけないで欲しい」と兵士たちが哀願して暴動が静まった話があります。
しかし、カリグラが7歳の時、シリア遠征に同行していたゲルマニクスはマラリアに罹りそのまま死去しました。その時、不人気な皇帝ティベリウスによる毒殺が囁かれた程にゲルマニクスはローマ市民に愛された将軍でした。
一家離散後ティベリウスの下で成長
ゲルマニクスの死後、カリグラは母、アグリッピナの元で暮らしますが、アグリッピナは皇帝ティベリウスとの関係が悪化して追放されます。アグリッピナの母は初代皇帝アウグストゥスの娘ユリアであり、その血の貴さを警戒したティベリウスはアグリッピナの再婚を禁じました。
そして、追及はアグリッピナの息子達にも及び、兄のネロ・カエサルは反逆罪容疑で追放処分後に流刑地で餓死、次兄のドルスス・カエサルも反逆罪容疑で収監されます。カリグラは、最初はティベリウスの母リウィアの元で生活、リウィアが死ぬと祖母(ゲルマニクスの母)小アントニアの元で暮らします。その後、カリグラとその下の兄弟は軍の監禁下に置かれ、捕虜同然の扱いを受けました。
ところが、どういう風の吹き回しか、西暦31年、19歳になったカリグラはカプリ島で隠居のような生活を送っていたティベリウスに引き取られるのです。カリグラの母と兄のドルススが死んだのも同時期で、世間はカリグラも殺されるのだろうと考えていました。しかし、信じがたい事に、ティベリウスはカリグラだけには危害を加えず、むしろ自分の後継者として処遇するようになります。
カリグラも感情を押し殺し、決して非難がましい態度を見せる事なく6年間耐え忍び、西暦37年ティベリウスが死去すると皇帝に指名されるのです。一度は捕虜同然の扱いを受け、死を覚悟したカリグラのアンビリバボーな復活劇でした。
最初は讃えられたカリグラ
西暦37年3月16日に2代目ローマ皇帝ティベリウスが死去し、遺言によりカリグラは、24歳でティベリウスの息子のゲメッルスとの共同皇帝に指名されます。しかし、世論はローマの英雄ゲルマニクスの血を引くカリグラを圧倒的に支持しており、緊縮財政で庶民の人気がない、ケチジジイのティベリウスは嫌われていました。
カリグラは世論を追い風に遺言を改竄。「ゲメッルスは狂気に取りつかれている」として、一部の遺言を反故にして単独皇帝として即位しました。ただ、ゲメッルスは自分の養子とし、次の皇帝候補として配慮は見せています。3代皇帝に即位したカリグラは、半ば皇帝即位のご祝儀のように以下の善政を敷きました。
①近衛軍、ローマ国内軍のみならず属州の兵士に至るまでボーナス支給
②ティベリウス時代の反逆罪に関する裁判記録を全て破棄して無罪放免
③ティベリウスが禁止した剣闘士の試合を復活
④帝国の財源で生活困窮者を援助
見え透いていると言えば、見え透いていますが、目に見える善政と言えば確かにそうです。
しかし、カリグラの善政は、僅か7ヶ月で終了してしまいました。
【次のページに続きます】