戦国時代の大名たるもので、経済観念に疎かったという人物はありません。上杉、武田、今川、織田、徳川、豊臣、毛利、その他諸々の有力な大名は、それぞれの土地の実情に合わせお金を稼ぐ事に励んでいました。
しかし、だからとって彼らが「世の中銭や!」と公言するまでには行きませんでした。金銭に執着するのは、醜くカッコ悪いというのが武士の世界では一般的だからです。そんな中、はっきりと「世の中銭や」と公言する戦国武将がいました。上杉景勝に2億円も献金した財テク武者、岡定俊です。
※今回は、「ほのぼの日本史」Youtubeファン、aaさんのリクエストに応えた記事です。
この記事の目次
戦国の世は名剣よりも財貨やで!
岡定俊という武将を表すのに特徴的な言葉が怪談小説「雨月物語」の貧富論に登場します。この小説は江戸後期の作家、上田秋成の作品ですが、この中に岡定俊が登場し、お金を貯めている心掛けの善い下男を褒めて、以下のように告げるのです。
「戦国乱世に生まれ弓矢を取る身には、棠谿・墨陽の剣は持っていたい名宝だが、その上に財貨があれば最高だ。
どんな名剣であっても千人の敵に対抗する事は出来ないが、財貨ならば天下の人を従わせる事が可能だ、武士たるものは、これを粗略に扱ってはいかん。」
この言葉は岡定俊自身の言葉ではないようですが、彼の人生観をよく表わしていました。
蒲生氏郷の家来として草鞋を売りまくる毎日
岡定俊の父は、若狭太良庄城の城主、岡和泉守盛俊と言われています。若狭は古くから物流が発展した土地であり、その為に岡定俊の経済感覚も磨かれたのかも知れません。
元亀4年(1573年)織田信長が若狭を制圧後、定俊は若狭の守護になった丹羽長秀には仕えず、若狭を離れて蒲生氏郷に仕官して百五十石を貰います。
織田信長は、領内で大減税をしていたようで年貢は四公六民、それに照らし合わせると定俊の手取りは六十石、現在の量に換算すると三十六石で、一石を8万円と換算しても年収は288万円。お世辞にも裕福とは言えない状態でした。
そこで、定俊は内職の草鞋売りに励みます。
閑を見つけてはせっせと草鞋を編んで、みすぼらしい姿をして人に売り歩き日銭を稼ぎます。しかし、稼いだ日銭は自分で使うでもなく同僚に奢るでもなく壷の中に溜め込んでは、時々、壷を振ってジャラジャラと音を立てて、薄笑いを浮かべていたそうです。
そして、時には、溜め込んだ銭や金銀を部屋の中に敷き詰めて、そこに裸でダイビングして匂いを嗅いだり、なめ回したりと、まさに守銭奴という雰囲気でした。もちろん、同僚がそんな定俊を良く思うはずもなく、金銭に執着する武士にあるまじき卑しい男として、爪はじきにされていました。
名馬を購入して面目を施す
しかし、定俊はただの守銭奴ではありませんでした。豊臣秀吉の小田原征伐には、蒲生氏郷も従軍していますが、この時、岡定俊は、せっせと草鞋を売って貯めた小判70枚をはたいて、血統書付きの名馬を購入したのです。
3両も出せば、それなりの馬が買えた時代に、その20倍以上の大金をはたいたのですから、現在で言えば、国産自動車が居並ぶ中に、突如フェラーリが出現したようなものでしょう。
「武士たるもの、戦場では名馬にのらんといかんよなァ?違うか?ご同輩」
と言ったかどうかは分かりませんが、普段の定俊のケチぶりをバカにしていた同僚たちはビックリ仰天。さらには、主君の蒲生氏郷も定俊の心がけを褒めて、その場で禄高を三百石に引き上げたそうです。戦場で手柄を立てる事なく、禄高を倍にするとは岡定俊、並みのケチではありません。
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