呉の武将……というよりも、どちらかと言えば呉の下に来た群雄に近い存在の太史慈。三国志演義では最大のエピソードとして孫策の信頼に応えたシーンが印象的なのもあり、忠義心に溢れた猛将と言うイメージを抱いている人も少なくないでしょう。
しかし筆者のイメージで話すならば太史慈は正史劉備……もっというと結構な野心家!という訳で、そんな筆者観点から太史慈についてご紹介したいと思います。
太史慈の上奏文ビリビリ事件
意外に思うかもしれませんが、太史慈は元々地方文官でした。そんな太史慈の名を(悪い意味で)広めたのが上奏文破り捨て事件です。
太史慈は徐州東萊郡の出身でしたが、ある日この東萊郡と青州との間で訴訟が発生しました。先に政府に上奏できたほうが有利となる事態に、何と太史慈、青州の上奏文を手に入れ破り捨てたのです。という訳で訴訟は青洲側の敗北になりましたが、太史慈は役所を辞めて逃亡することになります。
「気に入った」→出奔
が、そんな太史慈に注目したのが孔融。太史慈は母親が孔融に世話になっていたこともあり、孔融の下に訪れます。
迎え入れられ活躍するも、太史慈はこれを後に出奔。同郷ということで劉繇に仕えることになりましたが、上奏文の件や孔融から出奔していたことから劉繇の下では優遇されないまま燻ることになります。
孫策との出会い
その後、孫策との一騎打ちを繰り広げたりするものの劉繇敗北。この際に太史慈は残党を集めて独立勢力になりましたが、やはり孫策に敗北しました。孫策は捕縛された太史慈を部下に入れることにします。
後に劉繇が死んだ際に太史慈は「劉繇の部下を連れてくる」と孫策に言い、孫策もそれを受け入れて自らの元から離れる太史慈を見送りました。この際に多くの人が太史慈が裏切ると言ったものの、太史慈は孫策の信頼を裏切らずに帰順しました。この場面は三国志演義でも印象深い場面として描かれていますね。
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