こちらは2ページ目になります。1ページ目から読む場合は、以下の緑ボタンからお願いします。
この記事の目次
悲運
257年、この頃から孫亮は孫綝と対決することになります。
孫亮は孫チンを除くべく、異母姉に当たる孫魯斑らと計画を立てますが……これは孫チンに見抜かれ、逆にクーデターを起こされた孫亮は廃位、孫魯斑らは流罪、この際に孫亮の異母兄である孫休が擁立されました。
孫チンは後に孫休によって殺害されるものの、会稽王となっていた孫亮の悲運はまだ続きます。260年、孫亮が皇帝になろうとしているという流言が流れ、更に地位を落とされた孫亮は自害。一説には孫亮は孫休によって暗殺されたとも言われており、何とも不幸な孫亮の生涯は幕を閉じます。
さてここまで見てきて、孫亮は皇帝としてどんな評価をされるでしょうか。何もしなかった皇帝?国をやりたい放題されてしまった皇帝?
筆者の意見を述べてみたいと思います。
孫亮は「なにかできた」か?
孫亮は皇帝となった時にはまだ10歳。そして廃位された時には15歳。更に言うならば亡くなった時の年齢は17歳です。
しかも孫亮が皇帝となった時に、呉は荒れに荒れていました。これほどの幼い年の子供に外にも中にも敵だらけな中で難局に立ち向かって上手くやりなさい、というのは酷でしょう。
孫亮が皇帝となった時には「なにもしなかった」のではなく「なにもできなかった」のであり、もっと言うならば「なにかできたとしてなにができたのか」と言うべきであると筆者は思っています。
少帝・孫亮
孫亮はとにもかくにも、幼過ぎました。その幼さに目を付けられていいように利用されたと言っても良いでしょう。ただ「孫亮は幼かったけど成長したら間違いなく名君だった」というのは、少しばかり疑問が残ります。
孫亮の人生はあまりに短すぎました。短すぎて、何もできなくて、そうしたままに過ぎ去っていきました。だから孫亮の評価をするのは、とても難しい。
「なにかできたのではないか」という希望と「なにかしたとしてなにができたのか」という絶望、二つの相反する要素を持ってしまっている人物だと思います。
孫亮の評価
陳寿は孫亮について「孫亮は幼かったのに良い補佐役を手に入れられなかった」と評価しています。
孫亮の父である孫権が呉のトップになった時、19歳だったと言われています……お判りでしょうか、孫亮が即位したのはそれよりもずっと若く、そしてある意味ではその時よりも呉は波乱の真っただ中だったのです。
孫亮は結果を残せませんでした。しかし結果を残せるだけのような状況でもなかったのも確かだと思います。そういう意味では孫亮については、評価できない……というのが正直なところでしょうか。
「何もできなかった」と非難はできない、ですが同時に「本当は有能だったはず」とも言い切れない……短すぎる生涯故の、ついつい哀しい評価をしてしまう人物ですね、孫亮は。
三国志ライター センのひとりごと
筆者の個人的な意見ですが、孫亮は幼過ぎて評価がしにくい人物です。人物としても、皇帝としても、あまりに残された情報が少なすぎて、判断がしにくいのです。
それでもおそらく、幼いながらに自分が利用され、何とかしなければ……そう思いながらも、専横を取り除こうとして、そして失敗した……もしもっと孫亮が長く生きていたら、何かしら行動できていたのではないかと思わずにはいられない人物でもあります。
「もしこうだったら」「もしこうなっていれば」……そんな「もしも」がもっと見てみたかった、そんな人物の一人ですね。
参考文献:呉書三嗣主伝 呉録
関連記事:孫亮は皇帝になっても何にもできなかったってホント?
関連記事:集まれ!三国志のジジイ武将を一挙紹介