室町幕府が弱いのは極端な実力主義のせいだった!




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麒麟(きりん)がくるでもお馴染(なじ)みの室町幕府、とても弱いという印象で、後は織田信長に取って食われるだけという感じですが、一体全体、どうして室町幕府は弱かったのでしょう?そこには従来言われているのと、まるで違う理由が存在していました。

 

室町幕府が弱体化した理由、それは極端な実力主義のせいだと言うのです。




頑張れば報われる室町幕府

実は龐統は仕事ができすぎて驚く張飛

 

現代社会は頑張っても報われない社会と言われています。賃金は低下し逆に物価は上昇、毎日くたびれるまで働いても自分1人養うのが精一杯で、毎晩、アルコール度数の高いチューハイを飲んで泥のように眠る毎日です。

 

一方で室町時代には、現代日本とは逆の状況が存在していました。それは、「徹底した実力主義だが頑張れば報われる社会だった事です」これについては、細かく色々な事を言うよりも2つの実例を紹介しましょう。




合戦に勝てば1国プレゼントの大判振る舞い

山名宗全

 

最初に室町幕府の(けた)外れの恩賞の与え方を紹介します。室町時代の初期、山名氏(やまなし)足利尊氏(あしかがたかうじ)の鎌倉幕府追討に従い、さらに南北朝の争乱でも足利氏に味方し、一時は南朝方に加担しますがその後許されるなどして、上手く立ち回り、日本全国66カ国で、

 

①丹後国

伯耆(ほうき)

③紀伊国

因幡(いなば)

⑤丹波国

⑥山城国

和泉(いづみ)

美作(みまさか)

但馬(たじま)

備後(びんご)

播磨(はりま)

 

以上、11カ国の所領を一族で分割して安堵され「六分(ろくぶん)の一殿(どの)」と呼ばれる大守護大名になりました。

 

足利義満

 

しかし、このように勢力が大きい守護大名は幕府の脅威なので3代将軍の足利義満は、山名氏の中心人物、山名氏清(やまなうじきよ)山名満幸(やまなみつゆき)を挑発して明徳(めいとく)2年(1391年)内野合戦(うちのかっせん)に引きずり込みます。勝敗は僅か1日で決し、山名氏清と山名満幸は討死しました。

 

さて、問題は恩賞ですが、勝利した足利義満は自分に味方した守護大名に以下のように恩賞を分配しました。

 

①丹後国(一色満範(いっしきみつのり)

②伯耆国(山名氏之(やまなうじゆき)

③紀伊国(大内義弘(おおうちよしひろ)

④因幡国(山名氏家(やまなうじいえ)

⑤丹波国(細川頼元(ほそかわよりもと)

⑥山城国(畠山基国(はたけやまもとくに)

⑦和泉国(大内義弘)

⑧美作国(赤松義則(あかまつよしのり)

⑨但馬国(山名時熙(やまなときひろ)

 

この結果、11ヶ国の守護大名だった山名氏は、僅か3ヶ国の守護に没落しました。

 

内野の戦いは1日で終結し、両軍の兵力を足しても2万前後です。それでいて義満についた守護大名には、気前よく1カ国、ないし2カ国がポンポン恩賞で与えられていますが、逆に5000騎を率いた足利義満の取り分はゼロです。

 

名古屋城

 

10万以上の大軍が動いた関ケ原の戦いでさえ、東軍についた大名の恩賞は、基本、万石計算、さらに西軍大名から没収した領国の大半は家康が私物化したのに、室町時代の恩賞の大雑把さ、桁外れの気前の良さには驚きませんか?

 

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一夜にして歴史に名を残した元盗賊 骨皮道賢

悪党(鎌倉)

 

守護大名について恩賞が多額だった事は今、見た通りですが、庶民の場合はどうだったのでしょうか?それには応仁の乱で活躍した足軽大将の骨皮道賢(ほねかわどうけん)が好例です。

 

道賢は元々、目付(めつけ)頭目(とうもく)侍所所司代(さむらいどころしょしだい)多賀高忠(たがたかただ)に仕えて盗賊の逮捕をしていました。この目付とは江戸時代で言う、目明(めあか)しや岡っ引きであり、元々犯罪者であったものが、昔の勘と伝手を活かして任命されたもので身分も大したものではありません。

 

骨皮道賢と言う奇妙な名前も、本名ではなくあだ名や(とお)り名であると考えられています。

 

三国志のモブ 反乱

 

しかし、応仁の乱が起きるや、道賢は東軍の中心人物、細川勝元(ほそかわかつもと)に金品で勧誘され、足軽大将として300人を率い伏見稲荷山(いなりやま)の稲荷社に拠点を置いて放火や後方攪乱(こうほうかくらん)を担当しました。

 

それから六日間、骨皮道賢は東軍の足軽大将として活躍し、西軍に大ダメージを与えますが、業を煮やした西軍は、山名宗全(やまなそうぜん)斯波義廉(しばよしかど)朝倉孝景(あさくらたかかげ)畠山義就(はたけやまよしなり)大内正弘(おおうちまさひろ)のオールスターを繰り出し1万人で稲荷山を包囲。

 

畠山義就

 

道賢は女装して逃げのびようとしますが、あっさりバレて畠山義就の家臣に討ち取られ首は東寺(とうじ)の門前にさらされました。一方の西軍にも御厨子某(みずし・なにがし)という足軽がいて大勢の軽率な徒を集めて大将になり、応仁2年(1468)8月13日深草を拠点に山科の東軍を防いだとあります。

 

炎上する城a(モブ)

 

このため、東軍はこぞって御厨子を攻め立て、法性寺から竹田におよぶ広域が火災にあって、光明峰寺(こうみょうぶじ)も類焼しました。応仁の乱という大混乱の中とはいえ、出自もよく分からない人間が、いきなり数百人を率いる将になるというのは、徹底した実力社会、室町時代を象徴しています。

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