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二宮の変
そして孫和派、孫覇派の争い、二宮の変が始まります。因みに孫魯班、その夫の全ソウは当然ですが孫覇です。
このため陸遜らが孫覇派に讒言されるなどがあり、この件で憤死するなど被害は甚大、それによって一時的に権力を握った全ソウらも病死したりするなど、もはやいつ終わるのかも分からない状態になっていましたが、権力争いに嫌気がさしたのか孫権はこの頃、孫和でも孫覇でもなく末っ子の孫亮をかわいがるようになっていました。
孫権、動く(やっと)
250年、孫権は孫峻という相談役を得てやっと後継者争いに動きます。この際に孫和は皇太子を廃され、孫覇は自害を命じられ、孫覇派の者たちは謀殺、そして孫亮が皇太子となりました。
……もう嫌な予感しかしませんが、この際に処罰に反対した者たちが何人も誅殺されるなどして、呉の混乱は決して収まることはなく、二宮の変が終わってもなお糸を引くような結果となってしまうのです。。
孫静のひ孫・孫峻
因みにこの際に孫権から信頼を得て後続を託される孫峻は、孫権の叔父になる孫静のひ孫です。孫静は孫堅の弟ですが、苛烈な孫家の中では珍しく穏やかであり、良く孫策、孫権を支えてくれた存在でした。
また孫静は穏やかな性格だけでなく慎み深く、権力欲もない清廉な人物でした。繰り返します、これは孫峻の曾祖父の孫静の話です。
そんな曾祖父の血筋がどこへ行ったのかは知りませんが、孫峻は後事を託された後、自分が推挙した諸葛恪と権力争いで揉め、諸葛恪を惨殺、それからは孫亮が幼帝であることを良いことに専横に次ぐ専横を重ね、呉は二宮の変による内乱で弱っている上に専横によってどんどんとその国としての身体を蝕まれるようになったのでした。
裴松之先生、一言ドウゾ
さて二宮の変、言ってしまうと孫権が後継者争いでしっかりしていないから起きた出来事、と言っても良いでしょう。そして三国志で後継者争いと言えば良く名前が出てくるのが袁紹、劉表ですね。
この件について裴松之先生も袁紹、劉表を引き合いにこのように述べています。
「袁紹も劉表も後継者争いで国を滅ぼした。しかし彼らは袁尚、劉ソウができの良い息子だという判断のもと、後継者にしようとしていた。だけど孫権はそんなの関係なく、一回は孫和を後継者にしたのに孫覇を後継者のように扱って国を混乱させ、自分の一族に災厄をもたらした。二人と比較しても孫権の後継者争いの件はひどすぎる」
と、言われても仕方がないとはいえ、スパイシーでホットな総評です。ここから孫亮、孫休、そして……と呉の皇帝たちが続いていく(終わりの始まり)と思うと、仕方のない批判なのですけれどね。
三国志ライター センのひとりごと
前述したように、三国志演義だとこの二宮の変、ほとんど出てきません。このため孫権のやらかし案件が知れ渡らないままです。とは言え、この二宮の変、ドロドロカオスな後継者争いでしかないのですが、呉のその後に大きく繋がる事件の発端でもあります。呉王様のトップシークレット(?)でもありますが、この機会に是非、二宮の変がどういうものだったのか覚えておいて下さいませ。
参考文献:呉書呉主伝 三嗣主伝 妃嬪伝
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