抱朴子(ほうぼくし)は、西暦317年、西晋滅亡の翌年に葛洪(かつこう)によりまとめられたものであり、時代的にも三国志に近い、従って話題も三国志に関連したものが出てくる。しかし、出てくる人物に水鏡先生のような通称が多く、今となっては誰のことやら?みたいな人もいる。
以下は、抱朴子外編巻三十六安貧(あんひん)
ここに楽天先生と言う人がある。
戦乱を避けて蓬の実のように転々として益州に流れてきた。最初は太傅の許靖に親しまれ、後には諸葛孔明に知られた。
しかし、言いたい事を言い、行いは方正で他人と妥協しないので世間の人に憚られ、味方する人がいない。当時、許公も諸葛公も、皆の意向に反対するだけの権力がなく、そのため先生は茅屋に逼塞する羽目になった。
その後、楽天先生は、老齢になっても布衣(ほい)のままで、用いられる事なく死んだらしい葛洪(かつこう)は出世にあくせくせずに、清廉と安貧を貫いた楽天先生を隠者と褒め讃えているけど、しかし、この楽天なる人物が何者かは言及されていない。
葛洪が適当にでっちあげた人物なのか?
それともモデルはいるけれど、子孫が存命なので実名を憚ったのか?
どっちなのかは分からない。
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