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この記事の目次
しか~し!
ここまで高い評価を周囲から受け、功績を挙げ、出世し、皇帝の外戚と言う立場でありながら、なんと三国志には呉懿の伝は建てられていません。これに関して陳寿は「呉懿に関して実績がまとまってなくて伝が立てられなくて残念だなぁ」と言っていますが……他の人物たちを見てみても功績が少ない、残っている記録が少ない、そういった人物でも伝が立てられているのを見ると……もしかして皇帝の外戚であるからわざと排除されたのか……?
実は陳寿と何らかの(悪い意味での)関係があったのか……なんてちょっと邪推してしまうところがありますね。
陽谿会戦について
因みにちょっと呉懿の凄さを細く説明すると、陽谿会戦。ここで呉懿と魏延が勝利を収めた相手である費耀は、当時、魏では後将軍でした。となるとそれ相応の能力を持ち、兵を率いていたことでしょう。そしてそれに勝利できたともなれば、蜀でも呉懿は相応の能力を持っていたという裏付けになると思われます。
諸葛亮との確執?
また前述したように、呉懿は第一次北伐で諸葛亮から遠ざけられています。これに関して諸葛亮から「外戚が力を持つのを防ぐために」遠ざけられたのでは?とも言われますが、この時点、つまり諸葛亮が実権を握っていた時期でも左将軍となり、活躍をしていたことを踏まえると、能力から見ても、また固定の外戚としてもそれ相応の評価は受けていたのでは、と想像します。
だからこそ諸葛亮と確執があったから伝が残っていない(評価されていなかった)というよりも、もしかしたら陳寿との関係に何かしらあったのでは……?と思うのですが、いかがでしょうか?
呉懿なの?呉壱なの?
と、最後に余談を。呉懿の名前が呉壱になっている、どちらが本当の名前なのか?改名したのか?というたまにある疑問について。
後に晋の時代が来た際に、司馬懿の名前である「懿」に使用制限がかかりました。この際に名前が懿である人物は別の表記にされることになり、呉懿は呉壱と表記されるようになったのです。
因みに後漢でも光武帝・劉秀の秀の字にも制限がかかり、科挙の「秀才」が「茂才」となったことがあります。と、ちょっとした文字制限のお話?でした。
三国志ライター センのひとりごと
今回は色々と謎が多い、それだけに色々と考えてしまう武将、呉懿について話してみました。考えれば考えるほどなぜ彼が伝が残っていないのかは不思議なところです。もしかして今後何か資料が出てくるかもしれませんし、注目したい人物ですね。
参考文献:蜀書穆皇后伝 馬謖伝 王平伝 李厳伝 楊戯伝
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