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この記事の目次
孫綝とそのやらかし
と、ここでそんな孫峻が後事を託した人物である孫チンについてざっと説明を。この孫綝もまた専横を極め、最終的に孫亮から孫休に皇帝を変えるもその孫休に敗北、処刑されます。ここで少しお話しておきたいのが孫峻死、直後のお話。
孫綝に反抗したのが孫峻に言われて出撃して見事な陣を引いてしまったために怯えられて逃走までされた呂拠です。呂拠は(孫峻が出世させた)滕胤を丞相に推挙するも、孫チンは滕胤を大司馬として武昌に駐屯させようとしました。
これを不満として呂拠は孫チン打倒を滕胤に持ちかけるも、それを把握した孫チンが先に動き二人は討伐されました。孫チンはその後も粛清を繰り返していくも、最終的には失敗を繰り返して人心は離れ、孫休に処刑されることになります。
孫峻はどうして孫綝を後継にしたか?
と、ここまで言うと「孫峻がアホだったのでは」とか言われそうですが、実は孫峻が従兄弟である孫チンを後継にしたのは結構筋が通っていると思います。前述したように、皇帝の孫亮が幼いので補佐は必須。
この補佐役というのは孫家から出さなければなりません。どこかの国(呉の北の方)ではこの補佐役から一族が消えてしまい、最終的には国を奪われたように、孫家を守って行くならば血縁関係者から出さなければならないのです。
という訳で孫チンを後継にした……で、思い出して欲しいのが諸葛恪です。諸葛恪を起用したのは他ならぬ孫峻であり、また滕胤を起用したのも孫峻です。
もしかしたら孫峻は最初は諸葛恪と二大トップでやろうとしたけどそれが失敗、だからこそ滕胤を残しておいて孫チンと一緒に後事を、もしくは孫チンの補佐を任せたかったのかな……?と、考えてみました。
ただそのことは孫チンには全く伝わってなかったと思うと……何とも、やりきれませんね。
孫綝の最期「お前はなぜ」
さて、最後に孫チンの終焉をご紹介しましょう。孫休に殺される前、孫チンは命乞いをしたと言いますが、その内容はこう伝わっています。
「命だけは、せめて流罪にしてはもらえませんか」
「お前はなぜ滕胤と呂拠にそうしてやらなかったのだ」
「せ、せめて、奴隷でも構いませんので命だけは」
「お前はなぜ、滕胤と呂拠に「そうして」やらなかったのだ」
正に絶望。
この際に既に孫休は許す気は毛ほどもなかったと言われていますが、筆者はこのやり取り、孫休がとてつもなく冷徹かつ毒を含んだ返しをしていて、好きですね。
三国志ライター センのひとりごと
二宮の変から後、孫家は、呉はどろどろの内部抗争が起こります。これらは三国志演義ではほとんど触れられていません。しかし見れば見るほど目を覆いたくなるような……しかしそれでいて、何とも澱んだ魅力があります。
二宮の変から後、あまり触れられない箇所ではありますが、ぜひこの機会に色々と知って頂きたいと思いました。
参考文献:呉書呉主伝 三嗣主伝 孫峻伝 孫チン伝
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