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この記事の目次
王昭君
この王昭君についてもう少しだけ説明しましょう。そもそもの発端は漢の元帝に匈奴の呼韓邪単于が漢の女性を妻に欲しいと頼んだのが始まりです。これを聞いた元帝「どーせ異民族に美人も不美人も分からないだろ」と後宮の女性の似顔絵の中から、一番不美人な女性を選んで嫁がせることにしました。そこで選ばれたのが一番不美人だった王昭君です。
が、この王昭君、絶世の美女でした。と言うのも他の女性はみんな似顔絵師に賄賂を贈って美人に描いてもらっていたのですが、王昭君は賄賂を贈りませんでした。これを怒って似顔絵師はわざと王昭君を不美人に描いたと言います……なお、この似顔絵師は元帝の怒りをかって殺されてしまうのでした。……という話がある王昭君ですが、この王昭君が今回の避諱に関わっていることに皆様お気づきでしょうか?
王「昭」君
さて西晋の皇帝は前述したように、司馬炎です。その司馬炎の祖父が司馬懿です。そして司馬懿の避諱として呉懿は呉壱となりました。
更に言うなら、司馬炎の父親は司馬昭です。もちろん司馬昭も晋代に文帝の諡号を追贈されました。という訳でこの四大美女の王「昭」君、司馬昭の避諱として王明君、もしくは明妃とされることもあります。歴史的美女すらその名を変えられる、それこそが避諱なのです。
一文字賜るということ
と、やたら司馬家ばかり紹介したので「避諱は司馬家がやたらめったら厳しかったのか」とか思われそうですが、そんなことはありません。
光武帝・劉秀の秀の字にも制限がかかり、科挙の「秀才」が「茂才」となったことがあります。また避諱には文字を変えるだけでなく、文字を記さない、文字を正しく書かないなどの方法も用いられました。皇帝のような人物はその名前すら簡単に口にしても、文字にしてもいけない……というのはなかなか面白いですよね。
三国志ライター センのひとりごと
今回は避諱について、筆者なりにかみ砕いてご説明させて頂きました。この避諱、調べてみると中々に面白いものです。とはいえ、知らなければ知らないまま、良く分からないけど呉懿と呉壱は同一人物らしい……で終わりかねない豆すぎる豆知識。
この使用場所が限られるような三国志豆知識、日常でぜひご活用ください!
その場合は使用例もご報告下さると幸いです!
参考文献:蜀書穆皇后伝 西京雑記
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