漢中攻略で突如として現れ、魏から蜀に降り、そこで才能を発揮し、信頼され、末期の蜀を支えた忠義の人とまで称えられた王平。そんな王平ですが、有名な逸話として「文字を10文字しか書けなかった」ことがあります。
よくよくネタにされる面白い逸話でもありますが、今回はこの逸話に注目しながら王平という人物を見ていきましょう。
この記事の目次
魏から蜀へ降る王平
前述したように、王平が出てくるのは曹操の漢中攻略戦真っただ中。正史では蜀に降伏して仲間になりますが、三国志演義だと少し違います。
ここでは徐晃の補佐を任されるも、戦略で徐晃と意見が対立。このままでは殺されてしまうと蜀に投降、地理に詳しい王平は蜀で重用されることになりました。
街亭から一躍大出世する王平
そんな彼が名前を挙げるのは正史三国志でも三国志演義でも有名な街亭の戦いと馬謖と山登り。
馬謖と山に登る登らないで意見が対立、仕方なく馬謖は山に登って陣を、王平は別に陣を……結果、馬謖は大敗、王平は戦後処理を高く評価されて昇進します。その後も正史では248年に病死するまで良く戦い、国を守り、忠義の人と評価されるまでになりました。
王平はおちゃめな?ウィークポイント
そんな忠義の人であり、武勇や戦略眼にも優れて数々の功績を挙げた王平。彼には前述したようにおちゃめな(?) ウィークポイントというべきか、「自分の名前を含めて10文字しか文字が書けなかった」と言われています。
しかし「口述した内容を他の者に書きとらせていた」「文章にしたものはキチンとされていた」「史記や漢書を他の人物が読むと聞いた内容をよく理解した」というように、仕事には決して支障を出さず、また文字を知らなくとも頭脳明晰な人物ではあったように見受けられます。
馬謖との対立の原因か?
因みにこの王平が10文字しか文字を書けない、という話、正史にある記述にも関わらず、三国志演義では出てきません。しかし良く「馬謖が王平の作戦を取り入れなかった理由」として、知識人であった馬謖が文字も知らない王平を見下していたから……というような解釈をされることがあります。
正史に書かれていることから三国志演義の解釈に紐付ける、という点でもあり、中々面白い解釈だと思います。
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