王平は10文字以上の漢字が書けないのは本当なのか?

2020年11月6日


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10文字以上は書けない?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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徐晃との接点

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)

 

また三国志演義では徐晃の補佐となっている王平ですが、正史ではそのような記述はありません。ただ前述した馬謖の解釈と重ね合わせると、三国志演義での徐晃もまた、王平の意見を取り入れなかったのは王平が文字を書けなかったから、その程度の人物だと思っていた……という解釈もできます。

 

山越族(異民族)

 

ただこの文字を書けなかったことに関して、当時では決して少なくなかったこと、また王平が異民族の出身であるという説も考慮する必要があると思われます。

 



王平の異民族出身説

勉強する呂蒙

 

出世しているにも関わらず文字も書けなかったと言われるとよっぽどの勉強嫌いなのかな……ちょっと呉の呂蒙(りょもう)を見習うべきなんじゃないの……?なんて思ってしまいそうですが、異民族出身であれば成長しても文字が書けない、ただし読み書きは出来なくとも言語として理解することなればむしろ、かなり勉強を頑張った方なのでは、と思います。

 

板楯蛮(異民族)

 

実際ははっきりしていないことですが、こういった面から筆者は王平の異民族出身説をかなり推しています。

 

異民族に慕われる陳泰

 

しかし異民族出身であろうとなかろうと、王平は逸話を見ると理解力や戦略眼に優れているのは良く分かります。そう見ると逆に「優秀だけど異民族」という点で、他人から距離を置かれてしまう面もあったのかもしれませんね。そういう風に考えて見ると、王平、かなり味わい深い人物だと思います。

 

ちょ~っと余談!

三国志を楽しく語るライターセン様

 

最後に余談すぎる余談を。筆者は三国志演義、横山三国志から三国志の世界に飛び込みました。そして王平と言えばとあるシーンが未だに記憶に残っています。

 

関索

 

それは南蛮(なんばん)での戦いのこと、あるものを関羽(かんう)の遺児である関索(かんさく
)
が見つけた場面です。

「これは王平殿が記した手紙!未 申 酉以外の時刻には渡るなと書いてあるぞ!」

 

どういうことだ!どう考えても10文字以上書いてあるぞ!謀ったな王平!!

 

……まあこれは三国志演義には王平が文字を書けないことは書かれていないし、吉川三国志でもそんな記述がないので描かれたエピソードかもしれませんが……筆者は後からこのシーンを見返してはクスっと来ていた時期があったということでご紹介させて頂きました!

 

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三国志ライター センのひとりごと

三国志ライター セン

 

王平は文字が書けず、また異民族出身であった可能性があります。そういう面が彼自身の信頼を、正史でも、そしてもしかしたら三国志演義でも貶めてしまうポイントになってしまっていたのではないかと思います。

 

水路を断たれ残念がる馬謖

 

ですが馬謖にしろ、三国志演義での徐晃にしろ、王平の策を取り入れなかったために後に失敗してしまったことを考えてみると……後世の彼への評価は、かなり高いものだと考えさせられ、段々と評価されていった人物だったのではないでしょうか。

 

はてなマークな劉備と袁術

 

だけどなんで王平は魏から蜀に来たの?どうして理由を残してくれなかったの?そのせいで三国志演義では徐晃が無駄に評価マイナス要素増やされたんだよ?

 

……という、筆者のちょっとした愚痴で〆させて頂きます!

 

参考文献:蜀書王平伝 馬謖伝

 

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蜀のマイナー武将列伝

 

 

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セン

両親の持っていた横山光輝の「三国志」から三国志に興味を持ち、 そこから正史を読み漁ってその前後の年代も読むようになっていく。 中国歴史だけでなく日本史、世界史も好き。 神話も好きでインド神話とメソポタミア神話から古代シュメール人の生活にも興味が出てきた。 好きな歴史人物: 張遼、龐統、司馬徽、立花道雪、その他にもたくさん 何か一言: 歴史は食事、神話はおやつ、文字は飲み物

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