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徐晃との接点
また三国志演義では徐晃の補佐となっている王平ですが、正史ではそのような記述はありません。ただ前述した馬謖の解釈と重ね合わせると、三国志演義での徐晃もまた、王平の意見を取り入れなかったのは王平が文字を書けなかったから、その程度の人物だと思っていた……という解釈もできます。
ただこの文字を書けなかったことに関して、当時では決して少なくなかったこと、また王平が異民族の出身であるという説も考慮する必要があると思われます。
王平の異民族出身説
出世しているにも関わらず文字も書けなかったと言われるとよっぽどの勉強嫌いなのかな……ちょっと呉の呂蒙を見習うべきなんじゃないの……?なんて思ってしまいそうですが、異民族出身であれば成長しても文字が書けない、ただし読み書きは出来なくとも言語として理解することなればむしろ、かなり勉強を頑張った方なのでは、と思います。
実際ははっきりしていないことですが、こういった面から筆者は王平の異民族出身説をかなり推しています。
しかし異民族出身であろうとなかろうと、王平は逸話を見ると理解力や戦略眼に優れているのは良く分かります。そう見ると逆に「優秀だけど異民族」という点で、他人から距離を置かれてしまう面もあったのかもしれませんね。そういう風に考えて見ると、王平、かなり味わい深い人物だと思います。
ちょ~っと余談!
最後に余談すぎる余談を。筆者は三国志演義、横山三国志から三国志の世界に飛び込みました。そして王平と言えばとあるシーンが未だに記憶に残っています。
それは南蛮での戦いのこと、あるものを関羽の遺児である関索が見つけた場面です。
「これは王平殿が記した手紙!未 申 酉以外の時刻には渡るなと書いてあるぞ!」
どういうことだ!どう考えても10文字以上書いてあるぞ!謀ったな王平!!
……まあこれは三国志演義には王平が文字を書けないことは書かれていないし、吉川三国志でもそんな記述がないので描かれたエピソードかもしれませんが……筆者は後からこのシーンを見返してはクスっと来ていた時期があったということでご紹介させて頂きました!
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三国志ライター センのひとりごと
王平は文字が書けず、また異民族出身であった可能性があります。そういう面が彼自身の信頼を、正史でも、そしてもしかしたら三国志演義でも貶めてしまうポイントになってしまっていたのではないかと思います。
ですが馬謖にしろ、三国志演義での徐晃にしろ、王平の策を取り入れなかったために後に失敗してしまったことを考えてみると……後世の彼への評価は、かなり高いものだと考えさせられ、段々と評価されていった人物だったのではないでしょうか。
だけどなんで王平は魏から蜀に来たの?どうして理由を残してくれなかったの?そのせいで三国志演義では徐晃が無駄に評価マイナス要素増やされたんだよ?
……という、筆者のちょっとした愚痴で〆させて頂きます!
参考文献:蜀書王平伝 馬謖伝
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