戦国の風雲児、織田信長、彼は永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛してより、本能寺の変に倒れるまでの14年間、ピンチは何度もありましたが、京都を外敵から守り抜く事に成功しました。
ところが、当の信長自身は、京都に代官を置いただけで長期滞在する事は無かったのです。一体どうして、信長は京都に住まなかったのでしょうか?
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信長が京都に入らない理由は必要がないから
織田信長が京都に在住しなかった理由、それはシンプルで必要がないからでした。天正7年(1579年)近江国の安土山に城を築いた織田信長は、ここを拠点にして天下取りの方略を進めていく事になります。
信長が、どうして安土山に城を構えたのか?
それは安土が、東海道、そして中山道という二つの街道の近くに存在しているという理由と琵琶湖を通じて北陸街道にも近く、越前加賀の一向一揆や、越後の上杉氏に備えるにも、抜群に良い立地条件だったからです。
また、琵琶湖の水運を使えば、半日で信長は京都に入る事が可能でした。つまり、信長にとっては地図で見るほど、安土と京都は遠距離ではなかったのです。
織田信長の手足になった沖島惣中
琵琶湖の沖合1.5キロに、沖島という有人島が存在します。現在でも250人の住民が住んでいて市立小学校や郵便局もありますが、ここには戦国時代、沖島惣中という島民の一揆が結ばれていて、琵琶湖を通行する船は、ここで関銭を支払うかわりに、沖島惣中に航行の安全を守ってもらっていました。
簡単に言えば、沖島惣中は湖賊であり、関銭を払わない船は容赦なく襲っていたわけです。沖島は、戦国中期までは南近江守護の六角氏の支配下にあり、その後、延暦寺門徒の堅田の支配下にありましたが、織田信長が近江を平定すると信長の支配下に入りました。
信長は、沖島惣中に関所の特権を認めると同時に、水軍として手足となり働くように命じ、浅井攻めでも足の速い船三艘を惣中から動員させています。この点から分かる通り、信長は沖島惣中を支配下に置く事で、琵琶湖をわが物として自由自在に移動する事が出来るようになります。
京都に異変があれば、沖島惣中に命じて、快速船で京都に渡ればいいのであり、京都に常在する必要はなかったのです。また、沖島惣中は、かなり水戦に強かったのか、豊臣秀吉の朝鮮出兵でも、琵琶湖周辺の漁民共々動員されています。
京都では色々目立てない
また、安土城は防御施設というよりは、人に見せる為に威厳のある壮麗な城郭として建てられています。つまり、京都のようなゴチャゴチャした所に安土城を立てても目立ちません。
つまり、どうせ建てるのであれば、琵琶湖に近く湖からも東海道からも中山道からも、大勢が見物できるような場所に建てるのが望ましかったのです。そういう意味では街道が集中し、琵琶湖にも近い安土に城を構えるのが一番効果的だと言えるのかも知れません。
こうして、京都から距離を置いた織田信長でしたが、皮肉にも京都本能寺に少数で滞在した僅かの隙をつかれて、重臣明智光秀に討たれてしまいます。京都常駐を避けた信長が京都で非業の死を遂げるとは運命の皮肉ですね。
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