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この記事の目次
孫峻の天下
孫峻の手は諸葛恪とその部下の殺害では止まりません。諸葛恪の一族、配下を抹殺、二宮の変で生き残っていた孫和を自殺に追い込み、殺害した諸葛恪と同じように専横を始めました。
孫峻はこの時から孫権の娘であり、皇太子であったが早逝した孫登の妹・孫魯班と密通していたとも言われています。それ以外にも様々な非道をしたとされ、孫峻は魏の三方面作戦よりも多方面から恨まれるようになりました。
254年、孫登の息子である孫英が暗殺計画を練るも失敗、処刑。
255年、将軍孫儀が暗殺計画を練るも失敗、自殺。
この際には孫魯班の讒言によって孫魯育とその子供も連座させられることとなりました。
……因みに孫魯育は孫魯斑の妹で、将軍・孫儀は孫静の孫に当たる人物(孫コウの弟の子)です。もう少し言うと次の皇帝になる孫休の妻は孫魯育の娘です。
お分かりでしょうか。二宮の変の血族争いは、姿を変えてまだまだ続いていたのです。
孫峻の政策(それどこかで見た)
そうして呉で並び立つ者はないほどにのし上がった孫峻、魏に攻め込みます。ちょっと前に誰かが調子に乗って合肥に攻め込んで大敗したなぁとか言ってはいけません。しかしこの頃の魏はクーデターで混乱している時でもあり、この隙を、というのは間違っていなかったでしょう。
ただし天は孫峻を選ばなかったのです。
毌丘倹の反乱、安南攻撃、両方で失敗を重ねていきます。これもどこかで見たとか言ってはいけません。
墜ちる
政策に失敗を続ければ不満が出ます。それも元々人望がなかったのですから更に加速します。最早落ちるほどもない評判ですから、待っているのは最悪の更に下でしょうか。
ここで周囲に疑心暗鬼になったのか、ここにきて今まで踏みつけてきた人々に罪悪感が出てきたのかは分かりませんが、孫峻は夢に出てきた諸葛恪に殴られて病気になり、そのまま病没しました。
政争に勝ち続けて上り詰めた孫峻。最期にそれを打ち破ったのは、孫峻が推挙して切り捨てた、諸葛恪だったのでした。
三国志ライター センのひとりごと
因みに呉の混乱はここで終わりではなく、孫峻が後事を託してしまった従兄弟の孫チンに受け継がれ、もうちょっとだけ続きます。もうちょっとだけとはどのくらいかというと、呉の終わりまでというからもう……もう。
ただしこれは呉の終焉ということもあって、三国志演義では孫峻はほとんど出番がなく、たま~にむしろ「きれいな孫峻」で出てくることもあるのが、何とも苦々しい笑いしか浮かばない所ですね。
参考文献:呉書呉主伝 三嗣主伝 宗室伝 孫峻伝
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