どうして17世紀のオランダは世界最強になったの?世界史を丸わかり!


 

はじめての三国志コメント機能バナー115-11_bnr1枠なし

 

17世紀は、世界史的にもオランダの黄金時代と呼ばれています。その時代、オランダでは貿易、科学、軍事、芸術が世界最高水準に到達しました。しかし、オランダは欧州の小国に過ぎず、16世紀には神聖ローマ帝国の一部に過ぎません。

 

そんな小さな国が、どうして17世紀の世界で最強になったのでしょうか?

 

今回のまるっと世界史は、近代にも通じる国家繁栄の秘訣(ひけつ)を黄金の17世紀から(ひも)解きます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



オランダの前身ネーデルラント時代

 

15世紀のオランダは、ネーデルラントと呼ばれ、現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクが含まれた16州から構成されたブルゴーニュ公国の一部でした。この頃のネーデルラントは、毛織物の生産により経済的先進地となり、ガンやアントワープなどの富裕な都市を産み出していきます。

 

しかし、1477年にブルゴーニュのシャルル豪胆公(ごうたんこう)が戦死すると、豪胆公の一人娘のマリー女公は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世と結婚し、ネーデルラントはハプスブルグ家の所領になります。

 

スペインからの独立戦争

 

その後、神聖ローマ皇帝カール5世の時代に入るとネーデルラント16州は受難の時代を迎えます。カトリックの庇護者(ひごしゃ)であるカール5世に対し、ネーデルラントでは新教のプロテスタント、カルヴァン派が普及していたからです。

 

やがてスペインからの使者による宗教裁判、異端審問(いたんしんもん)が行われ、その横暴さから迫害を受けたプロテスタントのみならずネーデルラントのカトリックも、スペインの統治を憎悪するようになりました。

 

カール5世の後を継いだスペイン王フェリペ2世は、カール5世以上に妥協も譲歩もしない強権的なネーデルラント統治を続け、ついに1568年、我慢できなくなったネーデルラント諸州は、有力貴族のオラニエ公ウィレム1世を先頭に反乱を起こします。

 

まるっと世界史 特集バナー

 

ネーデルラント共和国として独立

 

戦争は当初、大国スペインが有利であり、ネーデルラントの低地諸国はことごとく再占領されますが、途中でイングランドとスペインの間で英西戦争(えいせいせんそう)が勃発した事でスペインの進軍が停止しました。

 

これを受けてネーデルラント北部7州は勢いを盛り返します。西暦1585年8月17日、当時の世界で最も重要な港であるアントワープがスペインから、北部7州の手に落ちました。

 

こうして、ネーデルラントは、北部7州が独立してネーデルラント連邦共和国と名乗り、カトリックが多いスペイン領の南部ネーデルラント10州との分離が確定します。

 

独立戦争は、その後も継続して続きますが、ドイツ30年戦争を終結させた1648年のヴェストファーレン条約によりネーデルラント共和国が国際的に独立国として認知され、正式にスペインからの独立を果たしました。このネーデルラント共和国が現在のオランダの直接の先祖にあたり、南部10州はベルギーやルクセンブルクとなりました。

 

カルヴァン派の金持ちがオランダに集まる

 

オランダが繁栄を極める契機(けいき)には富の流入が関係しています。

 

1585年アントワープが陥落した時の条件で、南部ネーデルラントに住むプロテスタント・カルヴァン派住民には、カトリックへの改宗、それが無理ならプロテスタント国への移住など、身の振り方を考えるよう4年間の猶予期間(ゆうよきかん)が与えられます。

 

カルヴァン派の住民は、熟練工やブルッヘ、ヘント、アントワープの金持ち商人が多く、彼らは考えた末に、カトリックの土地で肩身の狭い思いをするより、プロテスタントが圧倒的に多いネーデルラント共和国への移住を選びます。

 

こうして、多くのプロテスタントは、小さな港だったアムステルダムに住み着き、1630年までにアムステルダムは世界で最も重要な港町、商業の中心地へと拡大していきました。

 

【次のページに続きます】

 

次のページへ >

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

-まるっと世界史