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どうして17世紀のオランダは世界最強になったの?世界史を丸わかり!


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17世紀のオランダは世界最強(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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プロテスタントに金持ちが多い理由

 

でも、そもそも、どうしてプロテスタントにお金持ちが多いのでしょうか?

 

実は、プロテスタントは、宗教改革を起こされる程、堕落したカトリックの華美や贅沢を嫌いキリスト教の原点に戻り、清廉(せいれん)・勤勉・禁欲を美徳として自律した厳しい生活を営む人々でした。

 

贅沢を嫌うプロテスタントは、日々の労働に救いを求め、やがて懸命に働いて得た富は罪ではないという考えが生まれます。こうして、富を社会に投資して社会を豊かにする事も神の御心(みこころ)に適うという考えも産み出されていきました。これは、近代資本主義ととても相性がよい考えなのです。

 

このような勤勉で、無駄遣いせず、社会への投資をして富を増やす事に熱心な人々が大勢アムステルダムに集まった事は17世紀のオランダが世界最強国に躍進する原動力になりました。

 

安価なエネルギー源の獲得

 

国家が持続的な繁栄を続けるには、エネルギーの問題は避けて通れません。17世紀の世界におけるエネルギーとは、石炭と世界の海に乗り出す為の船を造る木材でした。

 

当時のオランダでは、風力を使いエネルギーを産み出す風車と石炭の一種である泥炭が豊富に手に入りました。また、オランダ国内は運河を通して緊密に繋がり、どこにでもエネルギーを輸送できます。もう1つの資源である木材は、黒い森と呼ばれたドイツの森林地帯から切り出されて、ライン川に投下され、適当な運河で筏に組んで、オランダまで輸送されました。

 

優秀な造船技術者にも、プロテスタントが多い事から、これらの木材はオランダの製材所で大型外洋船として生まれ変わり、世界中の海を航海するオランダ船籍の船にもなり、同時にオランダの国益を守るオランダ海軍の軍艦にもなりました。石炭と木材、この2つの資源を安価に手に入れられる事がオランダの大きな強みでした。

 

オランダ東インド会社の熱狂

 

国力の充実を受けて、オランダ1595年、当時の富の源泉であった東南アジア貿易に乗り出します。

 

オランダの貿易船は1597年に2年4カ月の航海を経て帰国し、240名の乗組員の2/3が死ぬという凄惨な状態でしたが、持ち帰った交易品の利益は莫大で、出資者には損をする者はいませんでした。1599年に出港した貿易船は首尾よく帰国し、400%という利益を叩きだします。こうして、東南アジア交易は儲かると知った富裕なオランダ商人はこぞって貿易会社に投資して一攫(いっかく)千金を夢見るようになります。

 

ところが、北海沿岸に六社の民間貿易会社が林立した結果、競争が激しくなり、東南アジアの交易品が大量に出回るなどして価格が暴落したので、1602年、オランダ政府が介入して、6つの民間貿易会社を1つに統合します。これがオランダ東インド会社でした。

 

民営の合併企業だったオランダ東インド会社でしたが、政府とのパイプが太く、会社の判断で、貿易拠点に事業所を置く権利が認められ、配当金も、一航海ごとに利益を分配する方式から、10年の据え置きに改められました。

 

これにより、以前のような高額な配当金は無くなりますが、それでも毎年出資額の10~20%の高い配当金を出し、引き続き投資家の人気を集め、多額の資金を集める事に成功します。

 

ちなみに東インド会社の運営には投資主が口を挟む権利はなく、アムステルダムを中心に選ばれた17人の役員が会社運営を決定していました。オランダ東インド会社の人気は高く、最初の近代的な証券取引所であるアムステルダム証券取引所で、株は400%の高値で取引され、この豊富な資金力を背景にオランダ商船は東南アジア貿易を独占し、香辛料貿易で莫大な富を生み出す事に成功します。

 

投資という手法をオランダは上手に利用し、欧州中から資金を集めるのに成功、世界最強国への道を驀進(ばくしん)していったのです。

 

アムステルダム銀行通貨が基軸通貨へ

 

1609年、アムステルダムに公立の銀行が誕生します。それまで、民間業者カシールが金融を扱っていたものの、高い手数料を請求するなど商人に評判が悪く、円滑な商取引を阻害していたのです。

 

アムステルダム銀行が設立されると、民間の金融業者の振り替えが禁止され、同時に、600グルテン以上の為替手形はアムステルダム銀行でないと決済できないなど商人の使用が義務付けされました。

 

当時の欧州では、各国の発行した通貨が複数流通していましたが、アムステルダム銀行は、それらにちゃんと法定価格をつけて、どこの国の貨幣とも両替できました。アムステルダム銀行は、両替以外にも、抵当貸付、信用付与や銀行券発行なども行い、現在の中央銀行の業務をほぼこなしています。

 

1720年代に、フランスとイギリスで起きたミシシッピー会社や南海泡沫会社事件によるバブル崩壊が起きると、アムステルダム銀行に預金が殺到して預け入れ額が膨張しました。

 

これは、アムステルダム銀行が、通貨の価値の維持を図り、世界中の資産家や金持ちから信用できると見られていた為で、スペインからは銀がイギリスからは金がもたらされます。

 

こうして、18世紀の一時期には、アムステルダム銀行発行通貨のグルデンは、世界の基軸通貨にさえなっていました。

 

身分の壁が小さい

 

17世紀のオランダは、階層的には、貴族や上流階級の次が、プロテスタントの聖職者、法律家、物理学者、小規模商人、実業家、国家機関の事務員などから成る裕福な中産階級でした。

 

そして、低層レベルには、農家、職人、熟練工、店主、政府機関の官僚などがいて、下層には、熟練労働者、メイド、給仕、船員、その他のサービス業従事者がいました。

 

そして、ピラミッド構造の最下層は貧農であり、彼らの多くは、都市において物乞いまたは日雇い労働者として生計を立てています。このように、他の欧州諸国のように階級が存在するオランダでしたが、商人の国であり、社会的ステータスを定義する上で「富」が重要であったため、階層間の分断はそれほど決定的なものではなく、他の欧州地域に比べて社会的流動性がずっと大きくなりました。

 

また、身分ではなく人間性こそが重要な美徳であると説いているカルビニズム思想も身分によって人を差別する階級社会を抑制する効果がありました。

 

つまり、オランダは貧農でもチャンスを(つか)み富を得られれば、比較的簡単にその上の階層に上がれた社会であり社会が意欲に満ちていて活気が存在していたのです。

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kawauso

kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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