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秀吉が逸早く戻る事が重要だった
そして、ここが重要ですが秀吉にとっては、2万人の全軍が全て引き返す以上に、まずは自身が姫路城に到達する事が重要でした。羽柴秀吉が姫路に到着したのは高松城から撤退を開始してより36時間から48時間後で、6月7日頃、秀吉は姫路城に6月9日まで留まり、怒涛の勢いで周辺の大名に手紙をだし、自分の神速アピールと信長の仇討ちを呼びかける事になります。
この頃に姫路には、さほど多くの秀吉軍将兵は到着していなかったでしょうが、そんな事は遠く離れた畿内の大名達には分かりません。
「備中高松にいた筈の秀吉が、こんな短期間で戻って来るとは神業だ…ヤツには、大きな武運がついているのではないか?」
畿内の大名は、秀吉の神速に度肝を抜かれ、光秀を見限り秀吉側に雪崩を打って参加します。
秀吉は、そこからは悠々と行軍し、山崎の合戦では疲労の色が濃い自軍を後方に下げ、池田恒興、中川清秀、高山右近、加藤光泰、木村重茲を前面に出しています。秀吉は最初から自軍が使い物になるとは考えてなく、神速アピールで味方につけた畿内の大名に頑張ってもらおうと高を括っていたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
羽柴秀吉は、中国大返し最大の難所を船坂峠と定め、ここを回避する事に知恵を絞ったのでしょう。その結果が、片上湾から船を使い、自分と旗本が一刻も早く赤穂に到着する事。
同時に兵士の装備も船に乗せ、出来るだけ軽装で2万人の軍勢に船坂峠を越えさせ脱落者を減らす事だったのです。実際、姫路城より先は、ゆっくりとした行軍なので、船が赤穂についた時点で、秀吉は勝利を確信していたかも知れませんね。
参考文献:日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る
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