中国大返し高速の秘密は船だった!

2020年11月15日


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中国大返し高速の秘密(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秀吉が逸早く戻る事が重要だった

中国大返し ver1(豊臣秀吉)

 

そして、ここが重要ですが秀吉にとっては、2万人の全軍が全て引き返す以上に、まずは自身が姫路城に到達する事が重要でした。羽柴秀吉が姫路に到着したのは高松城から撤退を開始してより36時間から48時間後で、6月7日頃、秀吉は姫路城に6月9日まで留まり、怒涛(どとう)の勢いで周辺の大名に手紙をだし、自分の神速アピールと信長の仇討ちを呼びかける事になります。

 

この頃に姫路には、さほど多くの秀吉軍将兵は到着していなかったでしょうが、そんな事は遠く離れた畿内の大名達には分かりません。

 

戦国時代の密談

 

「備中高松にいた筈の秀吉が、こんな短期間で戻って来るとは神業(かみわざ)だ…ヤツには、大きな武運がついているのではないか?」

 

畿内の大名は、秀吉の神速に度肝を抜かれ、光秀を見限り秀吉側に雪崩(なだれ)を打って参加します。

 

池田恒興

 

秀吉は、そこからは悠々と行軍し、山崎の合戦では疲労の色が濃い自軍を後方に下げ、池田恒興(いけだつねおき)中川清秀(なかがわきよひで)高山右近(たかやまうこん)加藤光泰(かとうみつやす)木村重茲(きむらしげこれ)を前面に出しています。秀吉は最初から自軍が使い物になるとは考えてなく、神速アピールで味方につけた畿内の大名に頑張ってもらおうと高を括っていたのです。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

羽柴秀吉は、中国大返し最大の難所を船坂峠と定め、ここを回避する事に知恵を絞ったのでしょう。その結果が、片上湾から船を使い、自分と旗本が一刻も早く赤穂に到着する事。

 

同時に兵士の装備も船に乗せ、出来るだけ軽装で2万人の軍勢に船坂峠を越えさせ脱落者を減らす事だったのです。実際、姫路城より先は、ゆっくりとした行軍なので、船が赤穂についた時点で、秀吉は勝利を確信していたかも知れませんね。

 

参考文献:日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る

 

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織田信長スペシャル

 

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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