益州からの投降者と言うと、呉では甘寧がいるけれど、前後関係が不明な襲粛(しゅうしゅく)という人物もいる。
以下は、正史三国志呂蒙伝
西暦208年、また周瑜・程普らと西に烏林で曹操を撃破し、曹仁を南郡に包囲した。益州の督将の襲粛が軍を率いて帰順すると、周瑜が襲粛の兵を呂蒙に与えるよう上書した。
しかし、呂蒙は「襲粛は胆力があって有能だし、おまけに辺境から呉の徳を慕って遠来したのだから、義の上でも兵を増しても奪うのは妥当ではない」と進言した。
孫権は呂蒙の言を入れて兵を襲粛に還した。
時期的に、益州から投降者が出るのは早すぎるように思うけどもしかしたら、荊州が曹操の手に落ちた時に、劉璋が曹操に派遣した300名の蜀兵の隊長かも知れない。周瑜が冷たく、呂蒙が襲粛に好意的なのは何故なのか?
興味深い所ではあります。