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この記事の目次
笹の才蔵
主君が没落したせいで、一兵卒のような扱いだった可児才蔵ですが、槍の名人であり笹の指物を背負い、敵の首を獲る事桁違いで、常に合戦では10個以上の首を獲りました。
成人の頭部の重さは、4~8キロもあり、とても10個など持って歩けないので、才蔵は首を獲ったら、その辺に置いて笹の葉をくわえさせ、後で回収していました。
才蔵が、こういう事をし出したのは、森長可に仕えていた時代だそうで、甲州征伐の頃、森長可が460余の首実検をしていた時、才蔵は3つの首を持って長可の前に出てきて、「16個の首を獲りました」と自己申告しました。
長可が「3つしかないではないか?」と訝ると才蔵は
「首が多すぎて捨てました。ただし獲った首には笹を口に含ませて置きました」と答えます。
長可が調べさせると、口に笹を含んだ13の首が見つかり、以来、才蔵は「笹の才蔵」の異名を取ったそうです。才蔵が首に笹を含ませる理由は、当時、酒をササと呼んだことから、末期の酒を含ませて戦死者を供養するという意味もあったとされます。
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小田原の韮山城攻めで武勇を轟かす?
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に従い、福島正則は、北条氏政の弟、氏規が立て籠もる韮山城に攻め掛かります。それも豊臣勢は総大将、織田信雄17000名を中心に、
右翼:蒲生氏郷4000名、稲葉貞通1200名。
左翼:細川忠興2700名、森忠政2100名、中川秀政2000名、山崎片家・岡本良勝2200名。
中央:蜂須賀家政2500名、生駒親正2200名、筒井定次1500名、福島正則1800名、戸田勝隆1700名
総勢では、44000名という大軍、対する北条氏規は3640名でした。ところが、楽勝かと思われた韮山城には、予め大量の鉄砲が持ち込まれており、城門に殺到した豊臣方の部隊には負傷者が続出。
結局、2日目以後は、豊臣方は力攻めを諦め、ひたすらに付け城を築いて、多数の兵力で北条方に圧力を掛ける持久戦にシフト北条氏規は3カ月以上粘った末、徳川家康の説得で開城しました。
あれ、可児才蔵の武勇は?と言う話なんですが、どうも北条氏規が才蔵の剛勇に感嘆して、「あの武将は誰か?」と家臣に聞いたという話があるそうです。韮山城攻めでは、最初の2日間は、派手にやり合ったそうなので、そこで才蔵が活躍したのでしょうか?
関ケ原でも20の首を獲る奮戦
慶長5年(1600年)の関ケ原では、可児才蔵は福島正則の先鋒隊長として活躍。前哨戦の岐阜城で3個、関ケ原本戦でも、同じく福島家に所属し家老だった盟友、梶田繁政と共に争って大谷吉継の陣へ攻め入って武功を挙げます。
さらには、宇喜多秀家の陣へ突入して大将株の首級を梶田と互いに取り、縦横無尽の活躍を見せて、徳川家康の本陣へ敵兵の首を17個個持ち帰り、徳川家康からも大いに賞賛されたと伝えられます。
この手柄により、才蔵は福島正則から500石を与えられ、後には、746石まで加増されて旗本と呼べる身分になりました。その後、福島正則が関ケ原の功績で、安芸国広島藩に加増移封されると才蔵も従い広島に赴いています。
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