可児才蔵とはどんな人?貧乏くじ8人の主君を渡り歩いた「笹の才蔵」


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可児才蔵とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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笹の才蔵

戦国時代の合戦シーン(兵士モブ用)

 

主君が没落したせいで、一兵卒のような扱いだった可児才蔵ですが、槍の名人であり笹の指物(さしもの)を背負い、敵の首を獲る事桁違いで、常に合戦では10個以上の首を獲りました。

 

成人の頭部の重さは、4~8キロもあり、とても10個など持って歩けないので、才蔵は首を獲ったら、その辺に置いて笹の葉をくわえさせ、後で回収していました。

 

戦に長けた森長可

 

才蔵が、こういう事をし出したのは、森長可に仕えていた時代だそうで、甲州征伐の頃、森長可が460余の首実検をしていた時、才蔵は3つの首を持って長可の前に出てきて、「16個の首を獲りました」と自己申告しました。

 

森蘭丸のお兄さん・森長可

 

長可が「3つしかないではないか?」と(いぶか)ると才蔵は

「首が多すぎて捨てました。ただし獲った首には笹を口に含ませて置きました」と答えます。

 

長可が調べさせると、口に笹を含んだ13の首が見つかり、以来、才蔵は「笹の才蔵」の異名を取ったそうです。才蔵が首に笹を含ませる理由は、当時、酒をササと呼んだことから、末期の酒を含ませて戦死者を供養するという意味もあったとされます。

 

関連記事:森長可ってだれ?というやり取りをしてしまった罪つぐないに「森長可」のことを本気で調べてみた

 

小田原の韮山城攻めで武勇を轟かす?

城攻めをするシーン(日本戦国時代)モブ

 

天正(てんしょう)18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に従い、福島正則は、北条氏政の弟、氏規(うじのり)が立て籠もる韮山城(にらやまじょう)に攻め掛かります。それも豊臣勢は総大将、織田信雄(おだのぶかつ)17000名を中心に、

 

右翼:蒲生氏郷(がもううじさと)4000名、稲葉貞通(いなばさだみち)1200名。

左翼:細川忠興(ほそかわただおき)2700名、森忠政(もりただまさ)2100名、中川秀政(なかがわひでまさ)2000名、山崎片家(やまざきかたいえ)岡本良勝(おかもとよしかつ)2200名。

中央:蜂須賀家政(はちすかいえまさ)2500名、生駒親正(いこまちかまさ)2200名、筒井定次(つついさだつぐ)1500名、福島正則1800名、戸田勝隆(とだかつたか)1700名

 

総勢では、44000名という大軍、対する北条氏規は3640名でした。ところが、楽勝かと思われた韮山城には、予め大量の鉄砲が持ち込まれており、城門に殺到した豊臣方の部隊には負傷者が続出。

 

火縄銃を撃つ侍(鉄砲)

 

結局、2日目以後は、豊臣方は力攻めを諦め、ひたすらに()け城を築いて、多数の兵力で北条方に圧力を掛ける持久戦にシフト北条氏規は3カ月以上粘った末、徳川家康の説得で開城しました。

 

朝まで三国志2017表情 kawausoさん01 無

 

あれ、可児才蔵の武勇は?と言う話なんですが、どうも北条氏規が才蔵の剛勇に感嘆して、「あの武将は誰か?」と家臣に聞いたという話があるそうです。韮山城攻めでは、最初の2日間は、派手にやり合ったそうなので、そこで才蔵が活躍したのでしょうか?

 

関ケ原でも20の首を獲る奮戦

合戦シーン(戦国時代の戦)

 

慶長5年(1600年)の関ケ原では、可児才蔵は福島正則の先鋒隊長として活躍。前哨戦の岐阜城で3個、関ケ原本戦でも、同じく福島家に所属し家老だった盟友、梶田繁政(かじたしげまさ)と共に争って大谷吉継(おおたによしつぐ)の陣へ攻め入って武功を挙げます。

 

大谷吉継

 

さらには、宇喜多秀家(うきたひでいえ)の陣へ突入して大将株の首級(みしるし)を梶田と互いに取り、縦横無尽の活躍を見せて、徳川家康の本陣へ敵兵の首を17個個持ち帰り、徳川家康からも大いに賞賛されたと伝えられます。

 

この手柄により、才蔵は福島正則から500石を与えられ、後には、746石まで加増されて旗本と呼べる身分になりました。その後、福島正則が関ケ原の功績で、安芸国(あきのくに)広島藩に加増移封されると才蔵も従い広島に赴いています。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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