可児才蔵とはどんな人?貧乏くじ8人の主君を渡り歩いた「笹の才蔵」


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可児才蔵とはどんな人?(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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可児才蔵の最期

水月観音像(仏像)

 

才蔵は若い頃から愛宕権現(あたごごんげん)を厚く信仰し、「我は愛宕権現の縁日(えんにち)に死なん」と予言していました。その予言通り、慶長18年(1613年)6月24日の愛宕権現縁日の日に、潔斎して身を清め、甲冑をつけて床几に腰かけたまま死去したと伝えられます。

 

遺言により、広島の矢賀の坂の脇に葬られ、「尾州羽栗郡(びしゅうはぐりぐん)の住人、可児才蔵吉長」と刻んだ石塔が立てられました。享年60歳。現在は、広島市東区東山町の才蔵寺で弔われているそうです。

 

可児才蔵年表

戦国時代の武家屋敷b

 

天文23年(1554年):美濃国可児郡に誕生。

天正11年(1583年):柴田勝家、明智光秀、前田利家、森長可、織田信孝を経て豊臣秀次に仕える

天正12年(1584年):小牧長久手の戦いで、真っ先に敗走し、秀次が激怒、クビになる。

天正15年(1587年)以後:佐々成政を経て、福島正則に仕える

天正18年(1590年):小田原攻めの前哨戦、韮山城攻めで武勲を現わす

慶長5年(1600年):関ケ原の戦いで福島隊の先鋒として活躍、大谷吉継、宇喜多秀家隊に突撃し首級を挙げる

慶長18年(1613年):福島正則の移封先、安芸国広島藩で746石の旗本として死去。60歳

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

可児才蔵と同時期に活躍した藤堂高虎も主君を11回代えていますが、あちらは最終的に大名になりおおせた事もあり、庶民の嫉妬ややっかみも受けたと見えます。

 

一方の可児才蔵は、城持ちにも国持ちにも程遠い750石の旗本ですから、庶民感情としても、まだ親近感がありますし、仕える主君がいつも滅亡という貧乏くじなので、判官びいきの感情も働いたかも知れませんね。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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