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この記事の目次
可児才蔵の最期
才蔵は若い頃から愛宕権現を厚く信仰し、「我は愛宕権現の縁日に死なん」と予言していました。その予言通り、慶長18年(1613年)6月24日の愛宕権現縁日の日に、潔斎して身を清め、甲冑をつけて床几に腰かけたまま死去したと伝えられます。
遺言により、広島の矢賀の坂の脇に葬られ、「尾州羽栗郡の住人、可児才蔵吉長」と刻んだ石塔が立てられました。享年60歳。現在は、広島市東区東山町の才蔵寺で弔われているそうです。
可児才蔵年表
天文23年(1554年):美濃国可児郡に誕生。
天正11年(1583年):柴田勝家、明智光秀、前田利家、森長可、織田信孝を経て豊臣秀次に仕える
天正12年(1584年):小牧長久手の戦いで、真っ先に敗走し、秀次が激怒、クビになる。
天正15年(1587年)以後:佐々成政を経て、福島正則に仕える
天正18年(1590年):小田原攻めの前哨戦、韮山城攻めで武勲を現わす
慶長5年(1600年):関ケ原の戦いで福島隊の先鋒として活躍、大谷吉継、宇喜多秀家隊に突撃し首級を挙げる
慶長18年(1613年):福島正則の移封先、安芸国広島藩で746石の旗本として死去。60歳
戦国時代ライターkawausoの独り言
可児才蔵と同時期に活躍した藤堂高虎も主君を11回代えていますが、あちらは最終的に大名になりおおせた事もあり、庶民の嫉妬ややっかみも受けたと見えます。
一方の可児才蔵は、城持ちにも国持ちにも程遠い750石の旗本ですから、庶民感情としても、まだ親近感がありますし、仕える主君がいつも滅亡という貧乏くじなので、判官びいきの感情も働いたかも知れませんね。
参考:Wikipedia
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