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この記事の目次
軍隊をやめ、商船に乗る
しばらくして、アダムスはもう少し自由に海に出たいと思うようになります。軍隊では、どこまで行ってもやはり戦争のための船です。父親のように、商売人たちと自由に世界を周りたい。
そんな中、バーバリー商会という貿易会社が航海士を募集している張り紙を見ます。そして、その足で軍隊に辞表を出しました。イングランドから北へ南へと海を渡り、父親と同じように、たまに家に帰るという船乗りらしい生活をしていました。また、弟のトマスを海の世界へ誘い、一緒に船の仕事に携わるようになっていきました。
極東へ向かうウィリアム・アダムス
船長として過ごしている中、オランダ人たちから、今度ロッテルダムから『極東』を目指す計画があると聞かされます。
「Far east(極東)」
口に出してみるとなんと魅力的な響きなのでしょう。アダムスは、熱に浮かされたようにそんな冒険のことで頭がいっぱいになってしまいました。家族の反対を押し切り、弟トマスを誘ってロッテルダムへ。
アダムスは、経験を買われ、5隻の船団の旗艦である「ホープ号」の航海士として採用されます。1598年、船団はロッテルダムを出発。アダムス34歳のときでした。
ボロボロになって日本へ
当初5隻で出発した船は、1隻はポルトガルに、1隻はスペインに拿捕され、1隻ははぐれてしまい帰還。旗艦のホープ号は沈没。残ったリーフデ号だけで極東を目指しました。その後も、補給のために寄港した際に現地の人々から襲撃されたりという苦難が続きます。
それで、トマスも殺されてしまいます。仲間も病気で次々に倒れていきます。アダムスは、冒険に出たことを後悔します。しかし、自分は生きている。やはり海の神に愛されているのか。ボロボロの状態で、ついに1600年、日本に漂着します。ロッテルダムを出て2年が経とうとしていました。
徳川家康に気に入られるウィリアム・アダムス
当初、海賊船と見られており、アダムスらは拘束され取調べを受けます。五大老の徳川家康が指示し、重体だった船長の代わりとしてアダムスらは大坂へ送られます。
カトリックのイエズス会は、ポルトガルと手を組んでおり、オランダやイギリスといったプロテスタントの国とは対立関係にありました。イエズス会からすぐに処刑するべきという注進がありましたが家康は無視し、注意深く話を聞きます。
そこで、ヨーロッパの情勢や、ポルトガル人・イエズス会らの違った側面を聞かされ気に入ります。また、貿易として違うルートもあるかもしれないと思い、アダムスらを釈放し江戸に迎えます。
三浦按針(みうら あんじん)になる
アダムスは、家康に帰国させて欲しいと何度も訴えましたが、許してもらえませんでした。代わりに給料をやるからと、通訳の仕事をなどをさせられたりしました。徐々に日本人たちと仲良くなり、自分の話を面白がってくれる人々に親しみを覚えるようになります。ある日、乗ってきたリーフデ号が江戸沖で沈んだと聞かされます。
そして、家康から「昔造船の仕事をしていたなら、あんな船は造れないか」と頼まれます。確かにアダムスは、若い頃に造船所で働いていました。ですが、工程の1部を任されていただけで、船を設計して造るほどの技術はありませんでした。
「なんとかやってくれ。金も人も好きに使っていい」
家康に言われ、恩義を感じていたアダムスは、昔の記憶を頼りに、日本の船大工らと帆船造りに乗り出しました。失敗の連続で、全くうまくいきません。ニコラスがやっていたことの記憶を思い起こします。
寝ても覚めても船造りのことばかり考えています。ついに完成したと思ったら夢だった、なんてこと何度もありました。試行錯誤を繰り返すこと約3年。1604年、ついに日本発の西洋式の帆船が完成します!
気をよくした家康は、その後さらに大型のものを造るように命じます。そして、また3年後に、120tという大型の船を完成させることに成功します。家康は、この功績を称えて、アダムスを250石取りの旗本にし、帯刀を許し領地も与えました。
「青い目のサムライ」の誕生です。また、三浦按針という名前も与えられ、イギリス人でありながら日本の武士になりました。
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