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徳川家康のあだ名はどうして狸親父なの?

2020年12月4日


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徳川家康のあだ名(1P目)

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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豆知識 室町時代まで狸は狂暴な獣?

 

現在の狸のイメージは、大きなたいこばらに大金袋(だいきんぶくろ)をぶらさげて、徳利(とっくり)を持ってふらふら歩く信楽焼(しがらきやき)の置物そのものだと思います。これだと狸親父と言われても、ずるがしこい油断ならない人だけど、どこか憎めない小悪党みたいな風にも受け取れます。

 

しかし、現在のマヌケな愛らしい狸のイメージは江戸時代になってから出来たもので、鎌倉から室町時代の狸は人を殺してしまう事もある狂暴な獣でした。

 

例えば、かちかち山の狸は、老夫婦の畑を荒らして作物をダメにし、わなに掛かって(しば)られても、改心したから許してくれと(おうな)をだまして縄を解かせ、そのまま老婆を(きね)で殴って殺し、その肉を作っている最中の狸汁(たぬきじる)の中に投げ込んでから媼に化け、帰って来た(おきな)に食わせるという極悪非道な存在です。

 

もし、狸が室町時代までの凶悪なイメージのまま現在まで伝わっていれば、徳川家康=狸という印象には多分ならないで終ったと思います。

 

徳川家康は織田信長に脅されて息子の松平信康に切腹を命じる

 

家康は狡猾(こうかつ)な人物ですが、同時に気が小さく、自己保身の為に弱体化した豊臣家を滅ぼそうと決意する臆病な面があり、そのような英雄らしからぬ人間くささが、セコイ一面を持つ狸親父のあだ名にマッチしたとも言えるのです。

 

日本史ライターkawausoの独り言

朝まで三国志2017-77 kawauso

 

もっとも、徳川家康が狸親父と呼ばれたのは彼が生きた戦国の事ではありません。もちろん家康が建国者として絶対の存在になった江戸時代でもなく、徳川幕府が崩壊してから後の事です。

 

後世の人は家康の立身出世の苦労など詳しくは知らず、主に芝居や演劇では最強の悪役になる家康に、成功者へのやっかみを込めて狸親父と呼んだのです。

織田信長と本願寺顕如(石山合戦)

 

家康の為に弁護すれば、苛烈(かれつ)な振る舞いや残忍な行動は信長や秀吉にもあり、家康だけの専売特許ではありません。しかし、最後まで残った勝者だけに全ての悪行が目立つという事には、なっていると言えます。

 

家康から見れば、「みんな何も知らないで勝手な事を言いよる」と雲の上で苦笑いしているかも知れませんね。

 

参考:Wikipedia

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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