古来より、この文を読んで泣かぬものは忠臣にあらずと脅迫観念が埋め込まれた名文。それこそ、諸葛孔明が北伐に出発する際に、皇帝、劉禅に対して出した出師の表です。
ところが今でこそ名文とされる出師の表は、同時代には味も素っ気も趣もない文と批評する知識人が存在しました。では、どうして孔明は当時の人が味も素っ気もないと批評する文を記したのでしょうか?
そこには劉禅がおバカだからという、誰もが知る蜀の極秘機密が横たわっていたのかも知れません。
この記事の目次
三国志の時代の名文とは蘊蓄合戦
諸葛孔明の文が味も素っ気もないとすると、三国志の時代に持てはやされた名文とは何だったのでしょうか?
kawausoもそこまで漢詩の素養がないのですが、例えば、曹稙の詩に吁嗟篇というものがあります。そもそも吁嗟って何?という感じですが、これは流転の意味なのです。
なんじゃそら?じゃあ流転と書けよと思ってしまいますよね。こればかりではなく、吁嗟篇には、
・轉蓬…枯れて根本から切れて風の吹くままに転がるヨモギ。
・夙夜…夙は早朝、夜は深夜。
・七陌九阡…陌と阡は田の畦道。東西を陌、南北を阡という。
・驚飆…突風の事
・宕宕…蕩蕩と同じで莫大である事
・糜滅…焼けただれて滅ぶ
・株荄…草の根の事
このように、ナニコレ1級漢字?と思える読めない漢字が頻繁に出てきます。当然読めないなら理解できないわけで、曹植の漢詩が楽しめる人というのは、とても漢字に強く多くの蘊蓄を持つ教養人という事です。
関連記事:曹丕は七歩詩をどうして曹植へ歌わせたの?
関連記事:本当に詩人?シニカルすぎる曹植の史実
出師の表はバカでも読めるように配慮されている
逆に諸葛亮の出師の表は、曹植の詩に見られるような難読漢字はあまり出てきません。現代人でも、ある程度漢字に強ければ、出師の表は読む事が出来るので、ここに三国志の時代の教養人が、孔明の文風には趣も味もないと評した意味が出てきます。
そう誤解を覚悟で言えば、諸葛亮はバカでも理解できるように出師の表を書いたのです。
かくして、孔明が出師の表を誰に捧げたのかを考えれば、そのおバカの本体が分かりますね。諸葛亮は、おバカ君主の劉禅でも分かるように難しい言い回しを回避して出師の表を完成させたという事なんですよ。
【古代中国の暮らしぶりがよくわかる】
そこにある諸葛亮の親心
劉禅は、西暦207年の生まれですから、諸葛亮が出師の表をたてまつった時には、満年齢で20歳という事になります。しかし、劉禅は、劉備に似て、あまり勉強熱心ではなかったようです。それというのも、劉備は劉禅に対しての遺言で、
まず「漢書」や「礼記」を読む事
それからひまをみて
諸子及び、「六韜」「商君書」に目を通す。
こうして知恵を増す事に集中しなさい。
聞けば諸葛丞相は
「申子」「韓非子」「管子」「六韜」
これらを一通り写本して送る前に
途中で紛失したとの事だ。
だから、自分で手に入れて勉強しなさい。
こんな風に本のタイトルばかりを挙げています。
劉備臨終の時、劉禅は16歳なので、それなりに読書をしているとは思うのですが、本のタイトルばかりが列記されている点を見ると、勉強が嫌いでモノ知らずだった可能性が高いんじゃないかと思います。
出師の表はそれから4年後に起草されますが、この4年で劉禅の学力が驚異的に上がったわけではないようで、諸葛亮は(書いても伝わらないのではしゃーない、極力分かりやすく、陛下でも分かるように書いてみよう)このように考えて、出師の表を書いたのではないでしょうか?
関連記事:キングダムの秦王・政がドハマリした韓非子(かんぴし)ってなに?
陳寿は語る
諸葛亮の文章に味も素っ気もなく懇切丁寧である事について陳寿は以下のように言います。
私が思うに咎繇は大賢であり、周公は聖人である。
「尚書」から考えるに、咎繇の判決は略にして雅び、周公の命令文は隅々まで煩雑だ。
これは何故か?
咎繇は舜や禹と共に談じ周公は群下と宣誓したからだ。
だが、諸葛亮が語ったのは衆人や凡士であった。
だからその意図は誰でも分かるように平凡で高尚でも緻密でもない。
そのため、名文と呼べる高みまでは到達しなかった。
しかしその声や教えや遺言は全てに渡り、私心がなく真心があふれていて、その言いたい事を知るには十分であり、
しかも現在まで伝わらぬ文書もある。
このように書いて諸葛亮を弁護しています。諸葛亮は難しい高尚な文章が書けないのではなく、その説く相手が平凡な庶民相手であるので、何よりも分かりやすく心に訴える事を最優先したという事ですね。
【次のページに続きます】