出師の表が広まった理由は劉禅がおバカだったから?


 

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孔明による出師の表

 

古来より、この文を読んで泣かぬものは忠臣にあらずと脅迫観念(きょうはくかんねん)が埋め込まれた名文。それこそ、諸葛孔明(しょかつこうめい)が北伐に出発する際に、皇帝劉禅(りゅうぜん)に対して出した出師(すいし)(ひょう)です。

 

ところが今でこそ名文とされる出師の表は、同時代には味も()っ気も(おもむき)もない文と批評する知識人が存在しました。では、どうして孔明は当時の人が味も素っ気もないと批評する文を記したのでしょうか?

 

そこには劉禅がおバカだからという、誰もが知る蜀の極秘機密が横たわっていたのかも知れません。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志の時代の名文とは蘊蓄合戦

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諸葛孔明の文が味も素っ気もないとすると、三国志の時代に持てはやされた名文とは何だったのでしょうか?

 

曹植

 

kawausoもそこまで漢詩の素養がないのですが、例えば、曹稙(そうしょく)の詩に吁嗟篇(くさへん)というものがあります。そもそも吁嗟(くさ)って何?という感じですが、これは流転の意味なのです。

 

なんじゃそら?じゃあ流転と書けよと思ってしまいますよね。こればかりではなく、吁嗟篇には、

 

 

轉蓬(てんぽう)…枯れて根本から切れて風の吹くままに転がるヨモギ。

夙夜(しゅうや)…夙は早朝、夜は深夜。

七陌九阡(しちばくきゅうせん)…陌と阡は田の畦道(あぜみち)。東西を陌、南北を阡という。

驚飆(きょうひょう)…突風の事

宕宕(とうとう)…蕩蕩と同じで莫大である事

糜滅(びめつ)…焼けただれて滅ぶ

株荄(しゅがい)…草の根の事

 

 

腐れ儒者気質な孔融

 

このように、ナニコレ1級漢?と思える読めない漢字が頻繁に出てきます。当然読めないなら理解できないわけで、曹植の漢詩が楽しめる人というのは、とても漢字に強く多くの蘊蓄(うんちく)を持つ教養人という事です。

 

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出師の表はバカでも読めるように配慮されている

宣誓文を読み上げる藏洪

 

逆に諸葛亮の出師の表は、曹植の詩に見られるような難読漢字はあまり出てきません。現代人でも、ある程度漢字に強ければ、出師の表は読む事が出来るので、ここに三国志の時代の教養人が、孔明の文風には趣も味もないと評した意味が出てきます。

 

そう誤解を覚悟で言えば、諸葛亮はバカでも理解できるように出師の表を書いたのです。

 

司馬昭の質問に回答する劉禅

 

かくして、孔明が出師の表を誰に捧げたのかを考えれば、そのおバカの本体が分かりますね。諸葛亮は、おバカ君主の劉禅でも分かるように難しい言い回しを回避して出師の表を完成させたという事なんですよ。

 

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そこにある諸葛亮の親心

劉禅

 

劉禅は、西暦207年の生まれですから、諸葛亮が出師の表をたてまつった時には、満年齢で20歳という事になります。しかし、劉禅は、劉備に似て、あまり勉強熱心ではなかったようです。それというのも、劉備は劉禅に対しての遺言で、

 

劉備

 

 

まず「漢書(かんじょ)」や「礼記(らいき)」を読む事

それからひまをみて

諸子(しょし)及び、「六韜(りくとう)」「商君書(しょうくんしょ)」に目を通す。

こうして知恵を増す事に集中しなさい。

聞けば諸葛丞相は

申子(しんし)」「韓非子(かんぴし)」「管子(かんし)」「六韜」

これらを一通り写本して送る前に

途中で紛失したとの事だ。

だから、自分で手に入れて勉強しなさい。

 

 

こんな風に本のタイトルばかりを挙げています。

 

劉備臨終の時、劉禅は16歳なので、それなりに読書をしているとは思うのですが、本のタイトルばかりが列記されている点を見ると、勉強が嫌いでモノ知らずだった可能性が高いんじゃないかと思います。

 

孔明

 

出師の表はそれから4年後に起草されますが、この4年で劉禅の学力が驚異的に上がったわけではないようで、諸葛亮は(書いても伝わらないのではしゃーない、極力分かりやすく、陛下でも分かるように書いてみよう)このように考えて、出師の表を書いたのではないでしょうか?

 

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陳寿は語る

正史三国志を執筆する陳寿

 

諸葛亮の文章に味も素っ気もなく懇切丁寧である事について陳寿は以下のように言います。

 

 

私が思うに咎繇(こうよう)大賢(たいけん)であり、周公(しゅうこう)は聖人である。

「尚書」から考えるに、咎繇の判決は(りゃく)にして(みや)び、周公の命令文は隅々まで煩雑(はんざつ)だ。

 

これは何故か?

咎繇は(しゅん)()と共に(だん)じ周公は群下(ぐんか)宣誓(せんせい)したからだ。

 

だが、諸葛亮が語ったのは衆人や凡士であった。

だからその意図は誰でも分かるように平凡で高尚でも緻密でもない。

そのため、名文と呼べる高みまでは到達しなかった。

 

しかしその声や教えや遺言は全てに渡り、私心がなく真心があふれていて、その言いたい事を知るには十分であり、

しかも現在まで伝わらぬ文書もある。

 

 

このように書いて諸葛亮を弁護しています。諸葛亮は難しい高尚な文章が書けないのではなく、その説く相手が平凡な庶民相手であるので、何よりも分かりやすく心に訴える事を最優先したという事ですね。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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