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この記事の目次
カトリックが間に入りキリストの騎士へ
このような騎士の横暴を見て、カトリック教会が調停に乗り出します。10世紀末から11世紀初頭にかけて、教会主導で「神の平和」「神の休戦運動」が巻き起こったのです。
「好き放題暴れるでない!このバカちんが!神は見ておるぞ。
お前達はお互いに殺し合い、弱い者に鬼畜のような所業をし地獄に落ちたいのか?
悪い事は言わん、今すぐに悔い改め、神に赦しを請え」
このように教会は、迷信深い騎士を脅したり、すかしたりして言う事を聞かせ停戦させたり、都市や農村の住民と騎士の間で紛争解決の手続きを定めるなどして、フェーデを乗り越える努力が為されたのです。
これは、一定の成果を上げ、好戦的野蛮人である騎士の暴力を抑止すると同時に教会は、これまで野蛮人として毛嫌いしていた騎士を「キリストの騎士」として教会の勢力に組み込む事が出来るようになりました。
それまで、ただ一族の名誉と利益の為に戦ってきた騎士が、それらの価値観の上にキリストの騎士としてカトリック防衛の為に戦うという動機付けが教会により、加えられていくのです。
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キリストの騎士の舞台十字軍
当初、教会は騎士たちを野蛮人と蔑み、関わり合いになる事を避けていました。
しかし、騎士の勢力が無視できない程に強まり、教会や修道会の財産まで奪うようになると、騎士をキリスト教の教えで感化して無毒化し、教会の都合のよい方向に働く尖兵として使おうと方針転換します。
すでに西暦853年にサラセン人がローマを脅かした時、教皇レオ4世は、全キリスト教国の騎士に対して、「祖国とキリスト教世界の為に戦い死んだものは、神が正しく天国へ迎え入れてくれるであろう」と宣言していました。
こうしてローマ教皇は、殺し合いを繰り広げた騎士同士もカトリックの教えに従い戦うなら、全ての罪を赦されるばかりか天国への扉も開かれると約束。さらには、神に仕える修道騎士にならずとも、信仰を守り戦えばそれだけで天国への道は疑いなしとしたのです。
それまで世俗の儀式だった騎士叙任式も、教会で司祭の手により行われるようになり、キリストの騎士という色彩が強まっていきました。
このキリストの騎士の役割が最も強調されたのが、11世紀から4世紀間も断続的に続いた十字軍運動です。騎士はその信仰心から或いは戦利品や身代金目的から、聖地エルサレム回復の戦いに熱狂的に身を投じる事になります。
十字軍騎士の活躍
第1回十字軍の戦いにおける騎士は、歩兵7に対し騎士1という比率であり、全体でも騎士は4500人程度で、騎士単体で戦いに勝ち抜いたわけではありませんでした。
また、異教徒であるサラセン人騎兵は軽騎兵で、ヨーロッパの騎士のように真正面からぶつかってくれず、迂回して集団で包囲し、槍で外側から叩いて騎士を落馬させ密集陣形を崩してから突撃するなど、ヨーロッパ騎士は苦戦を強いられます。
しかし、平原における戦いでは重武装した騎士の突撃力は大きな戦闘力となり、第1回十字軍の勝利と聖地エルサレムの回復に大きな貢献をしました。
ただ、ローマ教皇が贖罪を与え、戦いに参加して死ぬ事が天国の扉を開くと煽った結果として、キリストの騎士たちは、異教徒に対して情け容赦がなくなり、占領地で異教徒の大虐殺が起きた事も忘れてはいけないでしょう。
封建制が確立し騎士の時代が始まる
カロリング朝の解体は進み、カロリング朝の一部だったフランスでは、11世紀までには、領地が12ばかりのプランシボテ(公・諸侯領)と何百のシャテルニー(城主領)に細分化していきます。
こうして、統一した命令を出せる君主はいなくなり、プランシボテもシャルテニーも、領地内に私兵(従士)と庇護民を持ち、私兵と城主は主従関係を結び、恩貸地とされる土地を与え生活を保障し騎士として従属させていきます。
1020年頃には、欧州的封建制がヨーロッパ全土に拡大し、城主や領主を守る騎士の地盤が整えられました。公や諸侯は、こうして土地を与えて生活を保障した騎士を従え戦争に出撃するようになり、14世紀の初頭まで騎士は戦場の花形として君臨する事になるのです。
世界史ライターkawausoの独り言
今回はヨーロッパの騎士について歴史的に解説してみました。RPGでは、カッコよく気品に満ちた騎士が、元々は、大地主の次男坊、三男坊であり、私闘で敵から身代金を取る為や略奪の為に、好き放題に暴れていた存在であり、
教会の懐柔で、キリストの戦士となり、やがて十字軍の尖兵として異教徒と戦う事になるとは歴史って深くて面白いですね。
参考文献:図説騎士の世界 池上俊一 河出書房新社
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