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この記事の目次
第二次世界大戦でのイギリスの没落
第1次世界大戦後、イギリスとの同盟が解消された日本は、満洲・中国問題で、イギリスやアメリカ合衆国と対立します。その後日本は、イギリスからの独立運動をしていたラース・ビハーリー・ボースやA.M.ナイルの亡命を受け入れました。
1941年12月、日本は英米に宣戦を布告し、香港やマレー半島、ビルマなどの東南アジア一帯のイギリス植民地からイギリス軍やオーストラリア軍を追い出しました。
この日本の快進撃にインド国民会議派元議長で、インド国外でイギリスからの独立闘争を続けていたスバス・チャンドラ・ボースやビハーリー・ボース、A.Mナイルなどの独立運動家は、日本の軍事支援を受けてインド国民軍を組織し、インドの外側から軍事的にイギリスに揺さぶりをかけようとします。
しかし、インド国内に留まったガンジーは、このような動きに連動する事はありませんでした。
日本の快進撃が続き、日本軍がインドへ近づくと、イギリス政府は
「インドをイギリス連邦内自治領として認める」と条件を出し日本になびきそうなインド人の懐柔を図ります。一度、騙されていたガンジーは、イギリスの手の内を見透かし懐柔を拒否。民衆は「イギリス人はインドから出ていけ」とスローガンを掲げ、ガンジーは2年間投獄される事になります。
第2次世界大戦に辛うじて勝利したイギリスですが、植民地を収奪して蓄えた富を戦争で使い果たし、国内は空襲でガタガタであり、すでにインドをはじめ、世界中の植民地を抑え込む力を失っていました。
インド独立、そしてインド・パキスタン戦争
第2次世界大戦終結後、イギリス政府はインド国民軍として日本軍とともにイギリス軍やアメリカ軍、オーストラリア軍と戦ったインド人将官をイギリスに対する「反逆罪」として裁判にかける事を決定します。これに対しガンジーは、「インドのために戦った彼らを救わねばならない」とインド国民へ独立運動の号令を発しました。
この運動をきっかけに再びインド全体に独立運動が広がり、これに耐える事ができなくなったイギリスはインドの独立を受け入れます。ガンジーはついに長年の悲願だったインド独立を勝ち取ったのです。
しかし、200年ものイギリス支配から解放された結果、待っていたのは、それまで抑え込まれていたヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立の先鋭化でした。ガンジーの「ヒンドゥーとイスラムが融合した1つのインド」の願いも空しく、インドはパキスタンとの分離独立の道を選びます。
宗教対立を発端とする1947年8月のインド・パキスタン分離独立に前後し、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒による宗教暴動がインド全土で吹き荒れます。ガンジーは何度も断食し身を挺してこれを防ごうとしますが、状況は好転しませんでした。
ばかりか、1947年の10月にはカシミール地方の帰属を巡り、ムスリム住民が暴動を起こし第1次印パ戦争が勃発します。ガンジーは両宗教の融和を目指し、戦争相手のパキスタンに協調しようとする態度を貫きました。
暗殺されたガンジーの死因は射殺
ところが、それがヒンドゥー教徒の過激派の怒りに火をつけ、印パ戦争の最中、1948年1月30日、ガンジーはニューデリーの滞在場所ビルラー邸の中庭で、ヒンドゥー原理主義団体の民族義勇団員、ナートゥーラーム・ゴードセーに射殺されます。78歳でした。
世界史ライターkawausoの独り言
インド亜大陸の民族は、4つに大別され、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教、シク教、イスラム教、キリスト教、ゾロアスター教など複数の宗教、言語も憲法で保障されただけで22もあります。
ガンジーはこれらの多くの民族を反イギリスと独立、そして誰もが紡ぐ糸車を通じてまとめ、非暴力・不服従の手法により、暴力の連鎖を生まないで、イギリスからの独立を果たしました。
しかし、独立した結果、それまで独立の大義の前に抑えられていたヒンドゥー教とイスラム教の対立が再燃し、インドはパキスタンと分離してしまったのです。
参考:Wikipedia
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